特別展同時開催 渡辺崋山名品選

開催日 平成29年9月5日(火)〜10月22日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は江戸時代後期を代表する文人画家として知られています。中国の影響を強く受けた山水風景画をはじめ、写実を極めた肖像画や花鳥画は、時を超えて現在でも名品として伝えられています。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  寓画堂随筆 渡辺崋山 文化年間  
重美 壬午図稿 渡辺崋山 文政5年(1822)  
  癸未画稿 渡辺崋山 文政6年(1823)  
  脱壁 渡辺崋山 文政7年(1824)  
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  客坐掌記 渡辺崋山 天保4年(1833)  
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  蘆芙蓉双鴨之図 渡辺崋山 文化年間  
  秋草小禽 渡辺崋山 文政元年(1818)  
重文 渡辺巴洲像画稿 渡辺崋山 文政7年(1824)  
  岩本幸像 渡辺崋山 天保2年(1831)  
市文 糸瓜俳画之図 渡辺崋山 天保年間  
  竹中元真像 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
重美 ヒポクラテス像(複) 渡辺崋山 天保11年(1840) 原本は九州国立博物館蔵
国宝 鷹見泉石像(複) 渡辺崋山 天保年間 原本は東京国立博物館蔵
  雪山高隠図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
市文 風竹之図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
重文 孔子像 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  豊干禅師騎虎図 渡辺崋山 江戸時代後期  
  関羽之図 渡辺崋山 天保10年(1839)  
  林大学頭述斎像稿 渡辺崋山 天保年間  
重文 日月大黒天図 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 渡辺崋山像 椿椿山 嘉永6年(1853)  
重文 渡辺崋山像画稿 椿椿山 天保14年(1843)〜嘉永年間 個人蔵
  ジャンヌダーク像 渡辺崋山 天保年間  
重美 異魚図 渡辺崋山 天保11年(1840) 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

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作品解説

渡辺崋山 寓画堂随筆

寓画堂は文化11年(1814)から数年使用する堂号である。表紙には「寓画堂随筆」と記述されるが、全54丁の内容は縮図とスケッチで、「随筆」からイメージされる文字は非常に少ない。9丁目表には谷文晁が文化9年(1812)に描いた亀田鵬斎(1752〜1826)60歳の像と同じポーズのスケッチが描かれる。16丁目表から西王母と思われる部分スケッチや建物・調度品の部分詳細はまるで、現代の工芸デザイン画のようである。崋山若き日の眼差しは、張り詰めた緊張感とともに、その真摯な修練の日々を我々に感じさせる。

渡辺崋山 壬午図稿

表紙題箋に「壬午図稿縮本冬」とあり、表紙裏には崋山の弟子である椿椿山(1801〜54)の所蔵印である「琢華堂図書記」の印の下側が押されている。一丁目の書き込みには「壬午元旦試筆、全楽堂登」とあり、正月元旦から描き始めたことがわかる。内容は扇面・掛軸・屏風などの下絵が多く含まれ、余白に「…様頼」と記されていることから様々な人からの依頼画であることを示している。江戸時代初期に幕政の中心を担った青山忠俊(1578〜1643)、酒井忠世(1572〜1636)、土井利勝(1573〜1644)の姿を写したものや特定できる人物ではないが、町人の座った姿をスケッチして貼り込んだ図は、この冊子の中でも際立って目を引く。「津田勘太郎頼稿アリ」と余白に記された卓文君図は完成作の存在も知られている。末頁近くに崋山の弟、如山(1816〜37)の4種類の印顆を何度か押してある頁も見られるが、後世に押されたものと思われる。昭和16年(1941)に重要美術品に認定された冊子で、崋山が30歳の時に描かれたもの。文政5年は、父親の定通の病が進み、出家していた弟定意(1803年生まれ)が同僚との不和により、渡辺家に戻ってきたり、母方の祖父・河村氏一家の寄寓など、生活の窮乏がいちじるしかった年である。翌年の文政6年(1823)には、田原藩士和田伝の娘、たかを娶った。この資料は、かつては、浜松の遠州銀行頭取であった高林泰虎の旧蔵品であった。田原市博物館研究紀要第7号に全図・全文の活字が掲載されている。

渡辺崋山 癸未画稿

表紙には題の記載が無いが、頁の中に「癸未」と年記を書き入れられたところがあり、文政6年の手控画冊と推測されるものである。冊子中に、「惺窩先生肖像、一斎先生嘱四月十二日」と記される頁がある。この正本は現在、東京国立博物館に所蔵されている。正本には「水府所蔵狩野永納原図 文政癸未五月、渡邊登謹摸」とあり、近世儒学の祖といわれ、朱子学を究めた藤原惺窩の像を佐藤一斎(1772〜1859)の依頼により水戸徳川家に所蔵された原本を写し完成させたものである。また、婦人を横からスケッチした余白に「山中雨仙の為画扇五十柄」とあり、山中雨仙とは、岡崎藩士で、友人であった桜間青p(1786〜1851)のことで、彼のために扇面画を五十面描いたことがわかる。

渡辺崋山 脱壁

『脱壁』という名の手控画冊は文政6年から7年にかけて、管見の及ぶところでは4冊の存在が紹介された(栃木県立美術館紀要10 1982年に全図版掲載)。いずれも36から42丁の比較的薄いものである。『脱壁』という名からも推察されるが、掛軸のように壁に作品を吊った場合、その絵だけをまるで切り取ったかのように記録したものというような意味であろう。表紙の題には「甲申夏五第二」とあり、これに続くものとして「甲申夏六初七掌中縮写第三」「甲申夏六初掌中縮写第四」が知られる。「夏五」「夏六」はそれぞれ5月、6月と推察すれば、月に数冊のペースで記録していったのであろう。崋山の学画の様子が知られるものとして貴重な研究資料である。

渡辺崋山 客坐掌記 天保3年(1832)

この「客坐掌記」が書き始められた天保3年は、崋山にとって多くの出来事があった年で、5月12日に三河田原藩の江戸家老である年寄役に昇進、海防掛になり、田原藩隠居格三宅友信が居住する藩下屋敷巣鴨邸を中心に蘭学研究を本格的に始めている。題簽に「客坐掌記、天保壬辰、全楽堂」の墨書があり、表紙右上に「辰一」、右下に「計七冊」とある。90丁以上の紙面があり、この年に7冊書いたうちの1冊目と考えられる。後半には、蘭書からスケッチしたと思われる動物の頭骨や能狂言に使用したと考えられる犬の面のスケッチ、鳥・昆虫の写生もある。天保8年の「客坐掌記」(重要美術品・個人蔵)には、中国から愛玩用として輸入され、室内犬としてよく登場する狆(ちん)が見られる。これらのスケッチは、崋山の鋭い観察眼と向学心を知り得る貴重な作品。この冊子も昭和16年4月9日に重要美術品に認定されている。

渡辺崋山 客坐掌記 天保9年(1838)

表紙に「客坐掌記 戊戌孟夏 全楽堂 第十四」とあり、図中には雪舟(1420〜1506)・尾形光琳(1658〜1716)・池大雅(1723〜1776)・伊藤若冲(1716〜1800)・伊孚九などの古画の縮図が見られ、特に大雅の山水縮図が多く描かれ、中には指頭画(指さきで描く画で、長く伸ばした小指の爪に墨を含ませて描き、時には指や掌の面も用いた。中国から伝来し、指画とも言われる。)の写しも見られる。天保八年の『客坐掌記』の表紙に「第十三計七冊」と書かれたものがあり、それに続くものと考えられる。魚介類や猿、風景のスケッチもあり、末尾には蘭書の書名がカタカナで列記されている。「十寸見藤八 一中ふしをかたる」と書込のあるスケッチには単なる写実にとらわれない崋山肖像素描の特徴をよく示す。

渡辺崋山 蘆芙蓉双鴨図

背景に薄い青を引き、蘆芙蓉を浮き立たせるように描く。植物がやや重なり、奥行き感がうまく表現できていないところはあるが,鴨の羽毛表現は充分に完成の域に達している。「華山邉静」と款し、白文長方印の「華山」が捺される。文化年間後半または文政時代前半であろう。

渡辺崋山 秋草小禽

昭和3年(1928)に、恩賜京都博物館で開催された「渡辺崋山先生名画展」に出品された作品である。この展覧会は、関西地方の崋山作品の所蔵者を中心に出品された。恩賜京都博物館という館名は、現在の京都国立博物館にあたる。展覧会記録として、発行された『崋山先生画譜』に「菊花雙雀図」として図版掲載されている。また、明治22年(1889)に創刊され、現在も刊行されている美術雑誌『國華』の第117号には「花鳥図」として紹介されている。当時の所蔵者は、朝日新聞創始者で、衆議院議員であった村山龍平であった。村山は茶人としても知られ、その東洋古美術を中心とした所蔵品の多くは、神戸市東灘区にある香雪美術館に収蔵されている。この作品の落款に、「文政新元秋八月二十日寫於全楽堂華山邉静」とあり、「邉・静」の楕円連印が捺される。同年に描いた作品には、「坪内老大人像」(東京国立博物館蔵)があり、落款に「文政新元秋八月十有八日 渡邉定静寫」とあり、印も同一のようである。菊の花の下に二羽の雀が群れ飛ぶ蜂を見上げている。文化年間後半に小画面の絹本作品に多用される細い渇線を基調とした作品である。

渡辺崋山 渡辺巴洲像稿

この画は崋山の父、巴洲こと定通の肖像である。とても人柄の優しさ、温かさがにじみでている作品である。父が六十歳で亡くなった時に涙で泣きむせびながら筆を走らせたと言われており、崋山の父に対する愛情があふれているのではないだろうか。  側に刀を置き痩身で端座する巴洲の謹厳な肖像には、款記に、「巴洲先生渡邊君小照」とあり、図下に、「大学様御寺柳町浄土法伝寺、水戸御寺浅草清光寺、駒込大乗寺、播磨様御寺極楽水宗慶寺などと書かれている。

渡辺崋山 岩本幸像

崋山の妹もとの嫁ぎ先である桐生の岩本家の姑を描く。『毛武游記』(作品番号41)10月17日に「茂兵衛絹を持し其母の真を寫さん事を請ふ、応ず」とあり、まさにその作品と考えられるものである。眼には金箔を入れる。岩本家を切り盛りする偉丈夫な女主人の姿を描いた。

渡辺崋山 鷹見泉石像

図中に「天保鶏年槐夏望日寫 崋山渡邉登」とある。鷹見泉石(1785〜1858)は古河藩(現在の茨城県古河市)の江戸詰家老で、崋山にとっての蘭学の先輩にあたる。『鷹見泉石日記』によれば、天保8年4月頃は大塩平八郎の乱事後処理のため、大坂に滞在していた。また、画稿の存在が知られていないことはミステリーである。
顔の輪郭線は濃淡の差と肥痩のある線を短く使い、目立たせず、岱赭と微妙な墨の陰影で立体感を表現する。顔の光が当たる部分に、明るい色使いを、側面と首部にはやや茶色がかった濃い肌色を使用することにより、顔の立体感を描き出す。眼には瞳孔に円形の塗り残しがある。顔部分の毛書きに対し、烏帽子の黒紐はかすれた線で、また、衣線は恣意的に太く描き、袖から下を消える線で表現することにより、人物が浮き上がるような感じを見る者に与えている。脇差の鍔の立体感も違和感なく描かれ、西洋画から取り入れた陰影を軽やかに体現することで、東洋的な肖像画の気品を漂わせることに成功した崋山肖像画を代表する傑作である。

渡辺崋山 竹中元真像

図中に「明石藩醫竹中元真小像」とある。淡墨で輪郭を描き、陰影を墨淡彩でつける。唇には朱を施す。対看写照による肖像画である。田原藩主と明石藩主は姻戚関係で、竹中元真も江戸在府の明石藩医であろう。冷静な面持ち、伏目がちで、穏やかそうな人柄が画面から感じられる。

渡辺崋山 ヒポクラテス像

図中に「天保二年六月 以洋本寫之登」とある。田原蟄居中の日記である『守困日歴』十月の十八日に「為完晁作加羅哲欺」、十九日には「一、作加羅哲作斯」と記され、年代を遡及していると考えられる。完晁とは吉田藩の医師浅井完晁のことである。淡い岱赭に薄墨を乗せて陰影を施す。

渡辺崋山 糸瓜俳画之図

添えられた俳句に「下手乃かく絵こそまことの糸瓜かな」とあり、落款に「崋山画また題」とあり、印は捺されない。画面左上から糸瓜がたれ、中央に葉、画面右へ向かって蔓が伸びる。水をたっぷり含ませ、たらし込みの技法で描く。
崋山は、二十代から俳諧師五世太白堂加藤萊石と、また萊石没後は、六世江口孤月(1789〜1872)とも親交があった。崋山自身も俳諧をよくし、太白堂一門の『桃家春帖』『華陰稿』『月下稿』などに二十年にわたって俳画の挿絵を提供している。弟子の鈴木三岳(1792〜1854)に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、全体に上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山の俳画観を具現化したものとして貴重である。

渡辺崋山 雪山高隠図

遠景に急峻な切り立った山と垂直に流れ落ちる瀑布を描き、中景左に林越しの家屋と中央やや手前に、ゆるやかな坂道をその家を訪ねて行く馬上の人物と従者が描かれる。近景にはやはり手前に大きく樹木を描き、室内の景も描写される。また、庭先の門をその主人が開き、後ろに童子が続く。人物の描写の差がより遠近感を強調している。また、近景と中景の間には川の流れがあり、手前の川辺には葦が描かれており、水面が墨で表現されているが、水はゆったりと流れている。雪山の上の暗い空も同色で表現されている。山間木々の常緑の葉上には胡粉を使用して雪が残っていることを表現している。
 款記に「丁酉嘉平月寫(写)晩翠樓(楼)登」とある。瓢箪形朱文の「登」白文長方印の「崋山」を捺している。「晩翠樓」は場所を指していると考えられるが、特定できない。嘉平月は12月である。天保8年は飢饉と大風害により、田原藩では、藩主康直が5月と10月の2回にわたり、参勤交代の延期を幕府に願い出て、許可されている。
 なお、この作品には、附がある。土佐藩士で、高島秋帆に兵岳・砲術を学んだ法制学者細川潤次郎(1834〜1923)の題字「雪氣崢嶸」の次に、愛知県豊橋出身で、漢学者の石川鴻斎(1833〜1918)が大正3年(1914)4月に記した由来書があり、伝来として伊勢神宮の神官であった久志本家に伝わったことが書かれている。さらに、崋山の二男、小華に画を学んだ渡辺華石(1852〜1930)もその由来を記している。『渡邊崋山遺墨帖』に掲載される。

渡辺崋山 風竹之図

風を受けてしなる竹の風情がよく表現され、崋山が数多く描いた竹の図中でも傑出した作品である。賛に「便有好風来沈箪、更無閑夢到瀟湘戊戌麦秋浣花後四日寫為湊長安先生 崋山渡辺登」とあり、江戸の蘭法医であった湊長安(1786〜1838)のために描いたものである。長安は江戸で吉田長淑(1779〜1824)から蘭法内科を、大槻玄沢(1757〜1827)に蘭学を学んだ。また、長崎出島に来たシーボルト(1796〜1866)にも学んでいる。文政年間に江戸で開業し、天保7年(1836)には親友であった小関三英(1787〜1839)につづいて幕府天文方訳員となった。賛にある沈箪は寝具のことで、「気持ちのよい風の中で寝ていると、夢をみる間もなく、瀟湘(中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水の合する地)にいるように気持ちよい」という意味であろうか。この作品が完成した天保9年6月9日に湊長安は没した。

渡辺崋山 孔子像

款記に「天保戊戌五月念三日、後学三宅友信薫沐拜写」とあり、その下に白文方形印の「友信之印」がある。友信は第十一代田原藩主三宅康友の子で、兄の藩主が相次いで亡くなり、本来の三宅家の血統を継ぐべき地位にあったが、田原藩は姫路藩から養子を迎えた。この作品は、時には藩主、全藩士の礼拝の対象になるため、崋山は家臣である自分の名を入れずに、三宅家直系の血筋でありながら、藩主にならず、江戸巣鴨の下屋敷に隠棲していた当時33歳の三宅友信の名で制作した。落款の書体は崋山の筆跡である。この作品は中国唐代の呉道玄の筆と伝えられる孔子像を基にしたものと思われる。この孔子の聖像と十人の孔子門下の十哲像とともに田原藩校成章館春秋二回の釈奠の際に掲げられた。

渡辺崋山 豊干禅師騎虎図

「下総匝瑳郡椿海大川氏の意に法る 登戯墨」とある。大川椿海は安永3年、62歳で没した。禅僧の豊干を描く。たっぷりと墨を含ませた筆を大胆に使い、豊干と虎の立体感を表現している。嘉永4年(1851)の椿山の『過眼掌記』(田原市博物館蔵)に模写がある。

渡辺崋山 関羽之図

関羽(生年不詳〜219)は蜀漢の武将で、字は雲長。劉備を助けて功があり、後世各地に関帝廟を建て祀られた。落款にある「天保己亥端午」は天保10年5月5日で、14日に北町奉行所の揚屋入りとなる。材質は、縮緬に描かれている。『渡邊崋山遺墨帖』に掲載される。

渡辺崋山 林大学頭述斎像稿

林述斎(1768〜1841)は名を衡といい、美濃国岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の子で、和漢の典籍に通じ、寛政5年(1793)に26歳で幕府の命によって林家を継いだ。林家の私塾であった湯島の聖堂を幕府の学問所「昌平黌」とした。松崎慊堂・佐藤一斎を擁し、学徒の養成に努め、林家の中興と称された。この肖像では鬢に白髪が混じり、林家の紋をつけ、ふくよかなその姿は六十歳代と思われる。述斎の肖像画は谷文晁をはじめ数点が知られているが、崋山は文政年間に松崎慊堂・佐藤一斎の肖像画を描いているので、この述斎像の完成作品も存在した可能性もあるが、天保10年に蛮社の獄で崋山が捕えられた際には、昌平黌の学籍から抹消された事実から推測すると、正本も廃棄されたのかもしれない。光があたる顔の正面には明るい肌色を使用し、顔の側面と首にやや濃い色を塗ることにより、立体感を描き出す。崋山が西洋画から取り入れた陰影技法が駆使されている。この作品箱書は帝展委員の田中頼璋(1868〜1940)の筆による。

渡辺崋山 日月大黒天図

落款に「是十月、阿母君所夢也。命児登寫之。時十一月朔子謹記」とある。ある夜、崋山の母、栄は日月大黒天を夢に見た。崋山が蟄居を命ぜられ、江戸から田原へ来て寂しく貧しい日々の暮らしの中で見た夢である。その大黒天の姿は頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえるという、お決まりの姿である。渡辺家も田原へ来てから十か月が経ち、暮らしも落ち着いてきた。平和な日々を夢見た母の依頼により描いたものである。大黒天のにこやかな顔と衣線画が東洋画独特の太い線で表され、さらにおめでたい太陽と月が同時に空に見られるという背景を加え、ほのぼのとした家族愛を見る者に感じさせている。

椿椿山 渡辺崋山像

外題には「崋山先生四十五歳象癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られる。この像には三回忌の年にあたる天保14年6月7日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化4年4月14・15日に描かれた画稿の存在が知られている。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めている。12年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝え、椿山自身もその出来栄えに満足したであろう。黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据えている。面貌は多くの画稿が存在することから、とくに精緻に描かれているが、衣服は簡略に写意的に描く。切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいる。机に置いた右手は異様なほど大きく描かれ、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようである。また、この像には公人、つまり武士の立場を演出する刀は描かず、衣服も含めプライベートな崋山の姿を写しているのである。
なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのであろうか。この翌年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたる。この一連の事情を知っている椿山は、その45歳の転機の姿をポートレートとして記録し、供養したとも考えられるのである。

椿椿山 渡辺崋山像稿

天保13年の崋山一周忌に肖像画を完成させようとしていたことが椿山から福田半香に宛てた手紙によりわかる。「田原小祥之忌相当り、御同前旧懐断腸仕り候。御像も可認之所、今以不能其義候。是は誠に難儀仕候。迚も当年はなげ置可申と存候。実に「筆とりてかくもかなしき面影を何なかなかにうつしそめけん」此は先生竹村海三(蔵)の小照御認候節、御詠被成候歌なれ共、則是が実地に御座候。御察可被下候。」師崋山も親友の憤死に際し、肖像画を描こうとしたが、「筆とりてかくもかなしき面影を何なかなかにうつしそめけん」と詠んだ歌を思い出し、自分もその通りだという。
「癸卯六月七日第一稿」は顔の輪郭線を何本か引き、鼻や顎に淡墨で陰影をつける。墨画で着色はされない。「癸卯六月七日第二稿」には淡い代赭、淡墨にて鼻や顎に陰影をつける。髯のあとを淡彩で描く。「癸卯六月七日第三藁」とある図は肌色をやや濃くし、輪郭線を淡くする。第四稿では、頬、目許、顎、喉に墨暈しを施し、顔の骨格を強調する。大小十五枚の紙を貼り合わせて黒漆螺鈿の机を前に、右手を机にかけた崋山を描く。顔には別紙を貼り付けている。藤懸静也が昭和33年に箱書している。

渡辺崋山 ジャンヌダーク像(ルビの一部はカタカナ)

同版画の模写と考えられる。「油畫製油法」には、崋山が油彩画の技法を研究していたことがわかる。「密多油、榎ノ油五合、琥珀四両、鉛粉五分、松脂一分、瀝青二分、右六味合煎スル凡二日半、文火ヲ以テ緩ニ煎、絵ク時ヘンノウ少シ入レバ筆ノ走リ妙也、絵具ハ金粉鉛粉朱砂青膝(漆)臙脂」とある。「全楽堂文庫」の印が捺される。

渡辺崋山 異魚図

画中に「異魚不知其名、我郷南海所捕、鈴木春山持贈、形似魴魚無円暈、或鯧魚一種歟、土人云味甘平無毒 庚子十一月朔六日」とある。「異魚其の名を知らず、我郷の南海に捕うる所、鈴木春山持贈、形は魴魚に似て、円暈無し、或は鯧魚の一種か、土人云う味は甘く平にして毒無し」と詠むのであろう。鈴木春山は田原藩の蘭方医で、江戸北町奉行所で取調中に患った湿疹などを治療していた。春山の持参した珍しい魚を写生したもので、細く鋭い線描と、タンポの布目を利用した点描で描く。

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