平常展 生誕200年 渡辺如山

開催日 平成28年3月26日(土)〜5月15日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待された。椿椿山の画塾琢華堂に入門し、画家として名を成した。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  陳居中官女媚秀図 渡辺崋山 文政年間  
  画帖 渡辺如山 天保2年(1831)  
  当時現在広益諸家人名録   天保7年(1836)  
市文 琢華堂門籍 椿椿山 江戸時代後期 文政7年〜嘉永6年入門記録
重美 辛巳画稿(複) 渡辺崋山 文政4年(1822) 原本は個人蔵
  展観録 渡辺如山 天保3年(1832)  
  客坐縮臨 渡辺如山 天保3年(1832)  
  渡辺如山縮本 渡辺如山 江戸時代後期  
  如山花卉画巻 渡辺如山 文政12年(1829)  
市文 渡辺如山印顆      
  百石堂法帖 渡辺如山 天保2年(1831)  
  母児相摩之図  渡辺崋山 文政12年(1829)  
  桃花文禽図 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  岳陽大観図 渡辺崋山 文政年間 個人蔵
重美 牡丹図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841)  
  渡辺如山先生柱かけ 渡辺如山 江戸時代後期  
  花鳥図 渡辺如山 天保2年(1831)  
  牡丹之図 渡辺如山 天保4年(1833)  
  秋苑孤鶏図 渡辺如山 天保6年(1835)  
  芍薬之図 渡辺如山 天保6年(1835)  
  水墨春秋図 渡辺如山 天保6年(1835) 個人蔵
  梅華長春図  渡辺如山 天保年間  
  青蓮堂之記 渡辺如山 天保6年(1835)  
  蓮図・書 渡辺如山 天保年間  
  桃花文禽図 渡辺如山 江戸時代後期 個人蔵
  芍薬・白梅図 渡辺如山 江戸時代後期 個人蔵
  柳枝小禽図 渡辺如山 江戸時代後期 個人蔵
  柳荳百虫図 渡辺如山 江戸時代後期  
  人物図 渡辺如山 江戸時代後期  
  水僊花図 渡辺如山 天保7年(1836) 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

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作品解説

渡辺如山 画帖

のびのびと身近な植物や海を描いた作品。12図あり、淡彩がほどこされみずみずしい。椿山のもとで画を学び始めて2年後、16歳の時の作品である。

渡辺如山 展観録

表紙に「第五 計□冊 展観録 壬辰仲春 廿有一日 如山記」とあり、裏表紙には「八十九枚」とある。ページをめくると、植物、鳥、人物、鏡など身近な物をスケッチしている。そして、その間に時々書、または漢詩の勉強であろうか、書き写しの文字が含まれている。若い如山が様々なことに関心を寄せていたことがわかる。

渡辺如山 客坐縮臨

表紙に「第一 客坐縮臨 華亭記 計三」とあり、「山中青p蔵」や「立原氏蔵」との書付や沈南蘋・ヲ南田・張秋穀・江稼圃などの中国作家の様々な絵画や書、秀吉像や柿本人麻呂の摸写もあり、123丁からなり、「華亭」は如山の号である。師である椿椿山や兄である崋山の指導で、十代の自分の力としていたのであろう。

渡辺崋山 母児相摩之図

文政年間の後半には中国舶載の清潔感のある人物画を多く描いている。文政6年の冬に妻としてたかを娶り、3年前の文政9年に長女可津が生まれている。いとしい我が子を見つめる母の姿は、実際に目にすることのできた妻子の姿であったかもしれない。

渡辺如山先生柱かけ

柱掛けは、又は柱隠しとも呼び、柱の表にかけて装飾とするもので、書画が描かれることが多い。双板で一枚は書で「琅玕繞屋擬瀟湘(美しい竹がすまいをかこみ、瀟湘の風景に似ている)」とあり、もう一枚は墨竹図が描かれ「如山外史」と署名が入っている。

渡辺如山 花鳥図

兄の崋山が「空疎」とした山水画に傾倒し、職業画家への道を歩むことを嫌ったためか、文政十二年(一八二九)三月十四日、十四歳で椿椿山に入門したことが『琢華堂門籍』(田原市指定文化財・田原市蔵)で知られる。如山作品の筆致は時より目を見張るほど鋭い線を描き、既に相当の技量を持っていることがわかる。翌年四月には藩主三宅康直の日光祭礼奉行に随行しており、若くして田原藩士としてのエリートの道を歩み始めている。崋山と如山の年齢差は二十三歳で、普通に考えれば、親子ほどの開きがある。椿山について二年間、この年には年齢を感じさせない熟練の筆捌きを見せ始める。惲南田(一六三三〜九〇)・張秋穀(一七四四〜?)などの中国画人作品からの受容を感じさせる。枝と葉が多少重なり合うように描がれている以外は非常に完成度の高い作品である。

渡辺如山 牡丹之図

落款に「癸巳春日金暾宮戯寫明人之図 華亭道人」とある。金暾宮は崋山も天保三年頃まで使用する堂号で、崋山と同居していた如山が同じ堂号を使用したものである。若い時から何度も描いたモティーフゆえか、紙本に描かれたためか、やや粗さが目立つ。主題であるふくらんだ牡丹の花弁のボリューム感は旨く表現されている。

渡辺如山 芍薬之図

落款に「法秋穀張氏之意 乙未嘉平 如山定固」とあり、天保6年12月に、張秋穀の画法に法って描いたものということがわかる。張秋穀はヲ南田の法にならった没骨体の花鳥画を日本に送り込んだ。本人が来日したかどうかは不明だが、天明6(1786)〜8年頃に長崎へ来訪していた張秋谷という画人があり、彼が帰国後、名を秋穀と改めたという説もある。日本でよく入手できた作家であったのか、椿山はよく写している。芍薬の花の表現はふわりとボリューム感があり、葉のたらし込みも見事で、完成度が高く、小品ながら、兄の崋山や師の椿山の勧めた没骨をよく受容し、画技も熟成されたことがわかる作品である。

渡辺如山 水墨春秋図

落款に「天保六年歳次乙未夏四月十二日寫為玉置老大人 如山道人邊固頓首」とある。玉置老大人は、田原藩士玉置常右衛門であろうか。十八俵二人口の供中小姓普請方賄方であった。

渡辺如山 梅花長春図

無落款であるが、明治九年(一八七六)に画面左上に書かれた渡辺小華の賛により、如山の作品であることがわかる。「長春」とはコウシンバラの漢名で、蕾が開き始めた梅と寄り添うようにコウシンバラが描かれる。黄色と穏やかなピンクのバラの花びらが丁寧に描かれる。芳醇な香りが見ている者に漂ってくるようである。

渡辺如山 青蓮堂之記

題箋は小華が書いている。書き下しは以下のとおりである。
穐來頭痒難停手毛孔蠕々盡蟁疼訝是八萬蒼白髪一時衝冠化蛟龍本不/
池中物屯蹇尚甘土壌酸雲雨飛騰彼能事行藏有用豈泥蟠高臥異帰(趣)起/
鶴髪壯心樂暮年腔裡按図畧輿地繙書眸子認羣賢一室共書檠乍麼論時/
先後生讀到通心愉快處忼慨(撃)節過過程肚裏記風月設勺局胸間寫水雲天下/
江山縮方寸為詩為畫向吾分既定萬無求有女有男免懸鈎白首研竆三古秘/
垂帷養老一羊裘敝盡衣無更當識太塊生我裸更覺詩思如毳毛遂為天枸(狗)/
測誠叵齋居半日閑誰知靜坐自頭痒心田培(得)同肺間蓮(藕)似船開花十丈鼻/
毛繁水涕連珠綴玉欲零垂起吸松栢後凋氣吹撒冰風痕奇跡怪逸兼狂/
自古高人肆主張比病世間治無藥呵一任鵬鷃各飛揚/
   天保乙未八月凾山居士林喆病中(逾旬矣)正金望前覺少可起移/
   床於蓮堂窗間月下書(題)時年桑字幸未死/
        如山道人偶書於全楽学(宮)堂南

渡辺如山 蓮図・書

水墨を基調とした蓮を描く。季節は夏である。白色の蓮の花びらが水面から高く伸びた葉の陰から見えている。代赭を混ぜた着色で葉の存在感を表現している。蓮は崋山・椿山・崋椿系画家ともによく描いており、水面に小さな魚と合わせてよく描かれた。また、この画には対幅として書がある。兄崋山のもと、絵画、学問と優れた資質を持った如山であるが、そのほとんどは花鳥画であった。書もわずかであるが残っている。崋山は、「五郎の書は流麗にして気骨あり。我書に於いては弟に及ばす」と言ったとされ、その書は謹直な武士らしいものである。早世が惜しまれる逸材であった。

渡辺如山 水僊花図

画面上の賛に、「水精宮闕夜不閉/仙子出遊凌素波/為愛低頭弄明月/不知零露濕衣多/莫信陳王賦洛神/凌波那得更生蘆/水香露影空涛需/留得當年解佩人/雨帯今襟玉體寒/為誰解佩在許平/金支翠鈿那復得/只愁帰去便乗鸞 天保丙申仲春十有三日寫於全楽堂南窓」とある。「全楽堂」は崋山も使用する堂号である。

崋山とその一族

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