平常展 浮世絵〜風景を描く

開催日 前期:平成26年5月31日(土)〜6月22日(日)
後期:平成26年6月24日(土)〜7月13日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

展示作品リスト

企画展示室2
No. 期間 コレクションNo. 作品名 落款名 制作年 備考
1   896 東海道五十三次 歌川広重 江戸時代後期 場面替あり
2   832 五十三次名所図会 歌川広重 江戸時代後期 場面替あり
3     東海道五十三対 歌川豊国
歌川国芳
歌川広重
江戸時代後期 個人蔵、場面替あり
4 300 東海道 三嶋 歌川豊国 文久3年(1863)  
5 301 東海道 掛川 歌川豊国 文久3年(1863)  
6 404 東都大伝馬街繁栄之図 歌川広重 江戸時代後期 3枚組
7 407 日本湊尽東都江戸橋 歌川広重 江戸時代後期  
8 408 東都名所新吉原 歌川広重 江戸時代後期  
9 409 新撰江戸名所 隅田川堤白雨之図 歌川広重 江戸時代後期  
10 410 東都名所 芝増上寺雪中之図 歌川広重 江戸時代後期  
11 411 東都名所 高輪月夜 歌川広重 江戸時代後期  
12 412 東海道五拾三次之内品川 歌川広重 江戸時代後期  
13 413 東都名所 両国橋花火之図 歌川広重 江戸時代後期  
14 415 両国納涼大花火 歌川広重   3枚組
15 457 名古屋名所団扇絵 山王稲荷初蛭子 玉僊 江戸時代後期  
16 462 名古屋名所団扇絵 若宮祇園祭禮 玉僊 江戸時代後期  
17 464 名古屋名所団扇絵 片端檀尻車朝祭 玉僊 江戸時代後期  
18 467 名古屋名所団扇絵 枇杷島祭礼 玉僊 江戸時代後期  
19 470 名古屋名所団扇絵 大須観音 玉僊 江戸時代後期  
20 471 名古屋名所団扇絵 七ツ寺紅葉 玉僊 江戸時代後期  
21   名古屋名所団扇絵 西本坊櫻花 玉僊 江戸時代後期  
22   名古屋名所団扇絵 堀川花盛 玉僊 江戸時代後期  
23   名古屋名所団扇絵 櫻天神植木市 玉僊 江戸時代後期  
24   名古屋名所団扇絵 上材木町盆中燈籠 玉僊 江戸時代後期  
25   名古屋名所団扇絵 廣井八幡祭禮 玉僊 江戸時代後期  
21 573 東京鉄砲洲新嶋原全盛之図 歌川国輝 明治時代前期 3枚組
22 600 東都品川日之出之景 五雲亭貞秀 明治時代前期 3枚組
23 682 浅草公園陵雲閣之図 孟斎春暁 明治20年(1887)  
24 720 上野桜花観遊之図 揚州国延 明治20年(1887) 3枚組
25 748 東都名所之内 日本橋より江戸橋の風景 歌川広重(三代) 明治時代前期  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作家解説

初代 歌川広重 寛政9年(1797)〜安政5年(1858)

江戸八代洲河岸(現千代田区丸の内馬場先門)の定火消屋敷に生まれた。父は安藤家の入婿の定火消同心。幼名徳太郎、のち重右衛門、さらに徳兵衛と改名した。文化6年(1809)、13歳で父母を亡くし、火消職をついだ。はじめ豊広の門下となり、広重を名乗った。文政元年(1818)一遊斎と号し、天保2年(1831)頃、一幽斎を用いて、『東都名所』十枚シリーズを版行した。家督を祖父の子に譲り、画業に専念。天保4年、一立斎と号して『東海道五拾三次』を保永堂から出版し、風景画の第一人者となり、次々と風景画シリーズを手がけた。安政4年からは『名所江戸百景』を制作。江戸で流行ったコレラに罹り亡くなった。

三代 歌川広重(重政) 天保13年(1842)〜明治27年(1894)

本名は後藤寅次郎。父は船大工で、初代広重に入門し、重政の号を名乗る。二代広重が初代の養女と不仲で家を去った後、慶応元年(1865)から2年頃入夫して、広重の名跡を継ぎ、自らは二代と称した。初代広重に倣った「東海道五十三次」シリーズや開国の後明治となって変化が著しい風景や建物などの横浜絵、開化絵を多く手がけた。

歌川豊国 天明6年(1786)〜元治元年(1865)

本名は角田庄五郎。15、6歳で初代豊国に入門し、号は、五渡亭・香蝶楼・一雄斎など。国貞を名乗り、弘化元年(1844)、豊国襲名後は大量の作品を出版。作品数は浮世絵師の中で最も多い。

森玉僊 寛政4年(1792)〜元治元年(1865)

通称は右門、蜂助。玉僊、菊亭、三光堂、紫川亭(横三蔵町在住時)、高雅、蝦翁などと号す。尾張名古屋鉄砲町(現名古屋市中区栄)に生まれる。最初、狩野派を学び、のちに牧墨僊に浮世絵・美人画を学んだ。尾張の出版本でも活躍した。

歌川国輝 天保元年(1830)〜明治7年(1874)

二代目歌川国輝。三代歌川豊国の門人。姓は山田、名は金次郎または国次郎。一雄斎、一曜斎、曜斎と号す。天保末頃、役者絵などで活躍し、慶応元年(1865)の『末広五十三次』に参加した。明治に入り、「東京名所図絵」や「東京名勝」シリーズなどの開化絵で知られた。

五雲亭橋本貞秀 (1807〜1879頃)

下総国布佐(現千葉県松戸市)に生まれた。本名は橋本兼次郎。国貞に入門し、14歳で挿絵を描く。はじめ五雲亭、のちに玉蘭斎と号した。西洋銅版画の切抜きを集めて写実法を学んだ。実地調査に基づき、「一覧図」と呼ぶ精密な鳥瞰図を作成した。三代豊国没後は人気が最も高かった。慶応2年(1866)のパリ万博に浮世絵師代表として渡欧した。安政5年(1858)に開港した横浜に題材を得た横浜絵の第一人者。

孟斎春暁 生没年不詳

歌川芳虎の子。永島春暁。名は福太郎。始めは虎重といい、後に春暁、麗斎、竹林舎、孟斎と号す。明治21年(1888)より春暁と改号。「東京名所」シリーズ物や十二階建ての凌雲閣、浅草を題材とした作品などが知られる。

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作品解説

歌川広重

東海道五拾三次 

・初代広重肖像画(死絵) 三代歌川豊国画
死絵は主として歌舞伎役者や浮世絵師が死亡した時に、追善の意味を込めたり、訃報を知らせるために刊行されたものである。安政5年9月に、当時歌川派を代表する絵師であった豊国によって肖像が描かれ、時世の句「東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見む」と、広重の略歴を狂歌の友人であった天明老人こと本田甚五郎が添えた。
浮世絵の中で、風景画が独立して画題として人気が出たのは、江戸時代も後期のことであった。役者絵や美人画の背景として描かれたり、当時の風俗を街道の景観や旅人と共に描かれたりしていた。葛飾北斎と広重の登場で、浮世絵版画の主役となった。社会的にも旅が身近なものになってきたことが影響している。道中記や名所図会なども多く出版される。広重の作品にもそれらから取材されたものも多い。『東海道五拾三次(保永堂版)』は、広重が東海道を描いた最初のシリーズで、最も評価の高い作品である。天保3年(1832)から5年にかけて江戸日本橋から順番に刊行されたものと考えられる。天保5年には一組の揃いとして発売されている。

・日本橋
保永堂版でも、「変わり図」と呼ばれるものがある。「日本橋」では、橋を渡る大名行列の槍持と橋の手前にいる人が棒手振り六人ほどのものと、橋の通行を妨げんばかりに多くの人が描かれるものがある。

・品川
「品川」では大名行列の最後尾が茶屋前にいるものと、通過中のものがある。

・吉田
画面左側に豊川にかかる吉田大橋を描き、右側には修理のための足場をかけた吉田城を描く。吉田大橋は長さが百二十間(約216メートル)あった。

五十三次名所図会

五十三次名所図会は、竪絵東海道と称される。日本橋では、蔵屋敷を背景に橋を遠くから眺め、富士山が描かれる。

東都大伝馬街繁栄之図 天保年間から弘化年間

大伝馬街は、現在中央区日本橋大伝馬町で、江戸通りと人形町通りが交差する小伝馬町交差点の南側一帯を日本橋大伝馬町という。伝馬とは、公務の旅行者や物資の運搬のために人足と馬を提供し、宿から宿へ送る制度をいう。大伝馬町は木綿問屋街が並び、延焼防止を目的とした卯建のある店構えを見ることができた。

歌川国輝

東京鉄砲洲新嶋原全盛之図 明治時代前期

東京築地鉄砲洲新嶋原には、遊郭もあり、花魁の姿も描かれる。江戸時代初めには、鉄砲の形をした洲であったため、この名で呼ばれた。明治元年(1868)には、外国人居留地もでき、外国人をあてこんだ遊郭もできたが、それほど振るわず、明治4年には新吉原へ撤退してしまった。

五雲亭貞秀

東都品川日之出之景 明治時代前期

外国船がゆったりと航行し、陸上では、官軍の行進が描かれる。

歌川広重(三代)

東都名所之内 日本橋より江戸橋の風景 明治時代前期

明治7年(1874)、江戸橋は、西洋式石橋に架け替えられた。橋の向こう岸の蔵屋敷の遠景に東京第一国立銀行が描かれる。

浅草公園凌雲閣之図 明治20年(1887)

明治時代から大正末頃まで浅草にあった十二階建の塔で、「雲を凌ぐほど高い」という意味で、名付けられた。別名「浅草十二階」とも呼ばれた。日本初の電動エレベーターが設置されたことでも有名。建物内は、八階までは世界各国の物販店で、それより上は展望室だった。関東大震災で半壊し、解体された。

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