平常展 新収蔵品お披露目します

開催日 平成24年4月14日(土)〜5月27日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室1

展示作品リスト

企画展示室1
渡辺崋山 (1793〜1841)
No. 作品名 制作年 備考
  俳画四幅対 江戸時代後期 横山稔氏寄贈、太白堂孤月添句
  風俗人物図 江戸時代後期 芝村義邦コレクション
  崋山俳画譜 嘉永2年(1849) 版本
  田原御三人様宛書簡(和蘭陀風説書) 天保9年(1838)  
糟谷磯丸 (1764〜1848)
No. 作品名 制作年 備考
  神祇 江戸時代後期 山口金一氏寄贈
  「ふきあげよ」和歌 江戸時代後期 早川道代氏寄贈
  「さくらはな」茶碗 江戸時代後期 早川道代氏寄贈
白井烟嵓 (1894〜1976)
No. 作品名 制作年 備考
  鳳来寺山 昭和時代 竹内和子氏寄贈
  波と松の図 昭和23年(1948) 豊橋鉄道㈱寄贈
  竹林驟雨 昭和25年(1950) 豊橋鉄道㈱寄贈
  粧谿 昭和31年(1956) 豊橋鉄道㈱寄贈、第12回日展委嘱出品
  山道 昭和31年(1956) 豊橋鉄道㈱寄贈
  雲玉水流 昭和32年(1957) 豊橋鉄道㈱寄贈
  秋菊 昭和33年(1958) 豊橋鉄道㈱寄贈
  松林 昭和29年(1954) 豊橋鉄道㈱寄贈
  秋の鳳来寺 昭和22年(1947) 豊橋鉄道㈱寄贈
  豊川閣の山門 昭和時代 豊橋鉄道㈱寄贈
  田原城跡 昭和時代 豊橋鉄道㈱寄贈
  日出の石門より和地崎を望む 昭和時代 豊橋鉄道㈱寄贈
  田口岩古 谷山遠望 昭和時代 豊橋鉄道㈱寄贈
  伊良湖岬 昭和時代 豊橋鉄道㈱寄贈
鈴木翠軒 (1889〜1976)
No. 作品名 制作年 備考
  園林幽雅 昭和9年(1934) 寺田樹風氏寄贈
  七言絶句「陰風怒號妖星炫」 昭和時代前期 寺田樹風氏寄贈
  万葉集 安倍郎女歌 昭和時代 寺田樹風氏寄贈
中田恭一 (1895〜1960)
No. 作品名 制作年 備考
409 自画像2 大正7年(1918) 中田家遺族一同
231 法隆寺 昭和2年(1927) 中田家遺族一同
233 上野西の丸 大正15年(1926) 中田家遺族一同
242 上の駅(三重県) 大正15年(1926) 中田家遺族一同
246 月ヶ瀬2(奈良県) 大正15年(1926) 中田家遺族一同
252 小豆島・坂手 大正15年(1926) 中田家遺族一同
253 小豆島・草壁 大正15年(1926) 中田家遺族一同
254 伊豆・須崎 大正14年(1925) 中田家遺族一同
258 秩父山中3 大正10年(1921) 中田家遺族一同
410 自画像3 昭和26年(1951) 中田家遺族一同
418 白井小菊さんの孫 昭和時代 中田家遺族一同
彦坂和夫 (1935〜)
No. 作品名 制作年 備考
  酸化する空間 昭和36年(1961) 彦坂和夫氏寄贈、行動美術展奨励賞
  深海B   彦坂和夫氏寄贈
  世界の地と図 ―啐啄の対話― 平成9年(1997) 彦坂和夫氏寄贈
  大陸と貝の位相 平成10年(1998) 彦坂和夫氏寄贈
  アメリカ大陸   彦坂和夫氏寄贈、2枚組
  機械の虫 平成16年(2004) 彦坂和夫氏寄贈
  位相 二元論でグー   彦坂和夫氏寄贈、田原文化会館展示
  位相 平成16年(2004) 彦坂和夫氏寄贈、田原文化会館展示
近藤真弓 (1955〜2011)
No. 作品名 制作年 備考
  キルト LIVING TOGETER 平成14年(2002) 近藤喜久生氏寄贈、5月6日まで展示
  キルト 早朝のアルカイックスマイル 平成13年(2001) 近藤喜久生氏寄贈、5月8日から展示
小田莆川 (1805〜1846)
No. 作品名 制作年 備考
  四季草花図 江戸時代後期 四幅対
その他
No. 作品名 制作年 備考
  印顆類    
  名鉄沿線案内図(愛知県内・岐阜南部) 昭和10年代 中神純一氏寄贈

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

糟谷磯丸 明和元年(1764)〜嘉永元年(1848)

渥美半島の先端伊良湖村に生まれ、名を新之丞、諱を貞良といい、一般には、磯丸様と呼ばれた。31歳の時に父を亡くし、母は長年病床にあり、その回復を願い近くの伊良湖明神(伊良湖神社)へ日参するうち、参詣人たちが奉納額を見上げて和歌を口ずさむのを聞き、その響きに心を魅かれ歌を詠むようになる。もともと漁夫で、文字を書くことができなかったが、無筆の歌詠みとして世間に知られるようになる。隣村(亀山)に住む大垣新田藩の郡奉行井本常蔭に見出され、文字や和歌の指導を受け「磯丸」という名が与えられた。その後、京都の歌人芝山大納言持豊の門人となり「貞良」の名を授かり、生涯に数万首の歌を作ったといわれる。中でも「まじない歌は、当時の人々の暮らし向きや磯丸像がよく表されているものである。家内安全・無病息災・商売繁盛など民衆の希望や困りごとなどを歌にしたものである。三河各地をはじめ、三遠南信地域とのゆかりも深く、遠くは京都、伊勢、尾張、江戸などにもその足跡を残している。田原藩主三宅康直に召されて、ともに月見をして歌を詠んだという記録もある。

白井烟嵓 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)

愛知連豊橋市花田町に生まれ、本名を白井瀧司、字を龍と称した。16歳より従兄の白井永川に南画を学んだ。大正3年(1914)に上京、近衛連隊に入隊。除隊後、大正6年に松林桂月(1876〜1963)に師事し、大正9年第2回帝展に初入選。以後、帝展・新文展に出品する。戦後は日展に出品し、第5回に出品した「雲行雨施」が特選。昭和35年(1960)、日本南画院創設に参加し、理事を勤めた。

鈴木翠軒 明治22年(1889)〜昭和51年(1976)

現在の堀切町で、生まれ、本名は春視という。中学2年生のときに、県の書道展で表彰され、県立第一師範学校卒業後、福江尋常高等小学校(現在の福江小学校)の先生となった。大正2年(1913)、結婚で名字が鈴木となり、大正5年27歳のとき、文部省習字科検定試験に合格。大正8年、東京へ出、書家丹羽海鶴の弟子となり、比田井天来からも書の教えを受けた。昭和7年、文部省『国定甲種小学書方手本』(小学校の習字の教科書)を書くことを依頼され、昭和13年に完成。戦後は、日展の第1回審査員をはじめ日本書作院会長など、書道界の重要な職につき活躍した。昭和32年、日本藝術院賞を受賞、昭和35年には、日本藝術院会員となり、書道界の指導者としての頂点に立つこととなった。薄墨と流れる線の美しさ、のびやかな作風は「翠軒流」と呼ばれ多く弟子を育てた。

中田恭一 明治28年(1895)〜昭和35年(1960)

渥美郡大草村に生まれ、東京で教師をしながら、本郷洋画研究所に入所し、太平洋画会の石井柏亭・石川寅治に絵を学ぶ。三重県伊賀上野で教員となり、昭和2年の第8回帝展に初入選すると、3年連続で入選。のち教員を退職し、埼玉県川口市に移る。第14回・15回帝展も入選、昭和15年の紀元2600年記念展覧会(第3回文展)に入選、昭和18年には、紀元2603年全日本水彩画記録画に推奨された。翌年、大草に戻り、終戦。戦後、生まれ故郷の大草で風景や肖像画を描き続けた。

彦坂和夫 昭和10年(1935〜)

田原町に生まれ、仲谷孝夫に美術の指導を受けた。愛知県立成章高校へ進み、行動美術協会会友の大場厚に学んだ。大潮会学生の部特選受賞、武蔵野美術大学校(現武蔵野美術大学)西洋画科に進学。1957年、行動美術協会展入選、1961年には行動美術協会奨励賞受賞、翌年、会友に推挙。環境汚染が進むのを感じた彦坂は、1980年に行動美術協会を退会、翌年から環境保護活動への取り組みを始める。その意識は、非絵画としての立体芸術に及び、東京都江東区からの依頼による護岸壁画・モニュメントなどで自然と歴史の大切さを訴えた。

近藤真弓 昭和30年(1965)〜平成23年(2011)

赤羽根町高松に生まれ、地元の成章高等学校を卒業後、昭和62年に学習塾を開き、キルトを独学で学び、『マイパッチワークキルト Vol.1』に作品が紹介された。平成7年頃から農業に従事し、インターナショナルキルトウィーク横浜、インターナショナルキルトウィーク神戸、ブラザーHCキルトコンテスト、日本キルト大賞などのコンテストにて入選を重ねる。日本最大の賞「キルトジャパングランプリ」を2度受賞した。平成23年3月に死去。没後、田原・豊橋で遺作展が開催され、作品集が刊行された。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜1854)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜1873)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりである。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。田原市博物館に手控画冊10冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。今回、展示される作品は、愛知県内で、新たに発見された資料である。

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作品紹介

渡辺崋山 太白堂孤月 俳画四幅対

初午や太鼓の音の日一ぱい
まけよまけよ二日となりぬ市の雛
入かはり浴す佛の産湯哉
菖蒲太刀年かさ丈に心して

渡辺崋山 田原御三人様宛書簡(和蘭風説書) 天保9年(1838)

資料名である御三人様とは、田原藩を対象とした檄文であることから崋山が信頼していた藩士に宛てた書簡と考えられる。また、藩主へも極秘に申し上げよとあるから上級武士である。家老の佐藤半助・給人の松岡次郎、用人の真木定前と思われる。「西ノ方銀の橋」「西ノ棟上の餅ヲ焼テ」と書かれ、江戸城西丸焼失の後と考えられることから天保9年10月頃である。

糟谷磯丸 神祇

たゆみなくかけていのらん
ひと筋に心たたすの
森のしめ縄     磯丸

白井烟嵓 粧谿 昭和31年(1956)

描線と墨の潤渇で画面構成をする。滝は塗り残しで表現しているが、水墨で描かせたら、日展出品作家の中でも傑出した力量の持ち主であった。厚塗りの日本画が展覧会場の多数を占める中で、その流れに逆行するかのように墨一色の作品を出品し続けていく。師の桂月と同じ道であったのか。

白井烟嵓 山道 昭和31年(1956)

果たしてこの山道は登りか、下りか。墨で描くことの困難な課題に挑戦する意欲を表出した作品。

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