没後90年 岡田虎二郎

開催日 平成22年10月23日(土)〜12月27日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

岡田虎二郎(1872〜1920)は田原に生まれ、全国の偉人を訪ね、様々な思想や哲学を学びました。自らの経験から得た自然の原理を基に、独自の静坐・呼吸法を創案しました。この静坐法は一世を風靡し、皇族・学者・実業家など、1万人を超える人が実践しました。

展示作品リスト

企画展示室2
番号 作品名 作者名 年代 備考
森田 岡田虎二郎デスマスク 北村正信 大正9年(1920)  
123 岡田虎二郎肖像
写真
  大正4年(1915)頃 44歳、春堂文庫蔵
写真1 父 岡田宣方   明治29年(1896) 58歳
29 生家大戸口の戸車     春堂文庫蔵
参考写真 辻広場
(岡田虎二郎邸跡)
    田原市田原町西山口
14 生地・生家見取図     春堂文庫蔵
126-1 田原学校下等小学第八級卒業証書   明治11年(1878) 春堂文庫蔵
126-2 田原学校下等小学第五級卒業証書   明治15年(1882) 春堂文庫蔵
126-3 田原学校小学初等科第二級卒業証書   明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-4 渥美郡役所田原学校初等二級学術優等三等賞   明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-5 田原学校小学初等科第一級卒業証書   明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-6 愛知県渥美郡二十九学区田原学校小学初等全科卒業証書   明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-7 田原学校小学初等全級卒業学術優等褒章   明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-8 田原学校中等五級卒業学術優等褒章   明治17年(1884) 春堂文庫蔵
126-9 渥美郡役所田原学校中等五級卒業学術優等賞   明治17年(1884) 春堂文庫蔵
126-10 愛知県渥美郡役所田原学校中等全級卒業学術優等賞   明治19年(1886) 春堂文庫蔵
写真2 病弱時代の面影   明治27年(1894) 23歳
写真3 渡米前の面影   明治34年(1901) 30歳
写真4 サンフランシスコから   明治36年(1903) 32歳
写真5 苦悩時代     帰国後
写真6 静坐創始時代      
写真7 静坐確立時代   明治42年(1909) 38歳
写真8 静坐確立時代   明治42年(1909) 38歳
写真9 地方指導時代   明治44年(1911) 40歳
写真10 隆盛時代   大正3年(1914) 43歳
写真13 隆盛時代   大正5年(1916) 45歳
写真14 虎二郎先生一家   大正5年(1916) 45歳
写真15 長女 礼子   大正5年(1916) 10歳
写真16 虎二郎先生一家と兄 藤十郎氏 弟 嘉三郎氏   大正5年(1916)  
写真18 フロックコートの虎二郎先生   大正8年(1919) 48歳
90 岡田式静坐法 実業之日本社 大正3年(1914) 春堂文庫蔵
森田38 静坐童子 島津製作所 昭和51年(1976)復刻 原模型大正年間制作
69 静坐童子写真     春堂文庫蔵
118 岡田虎二郎より井上嘉三郎(弟)宛書簡 岡田虎二郎 明治34年(1901)〜大正5年(1916) 春堂文庫蔵
1 書「静楽」 岡田虎二郎 大正年間 春堂文庫蔵
森田3 書「静坐無為国」(複製) 岡田虎二郎 昭和56年(1981)  
75 書「静神養氣」 岡田虎二郎 大正年間 春堂文庫蔵
写真19 遺骨を囲む(豊橋岡田屋)   大正9年(1920)  
写真20 蔵王山の葬場   大正9年(1920)  
  岡田虎二郎伝と静坐の流れ 松浦邦治 平成19年(2007)  
参考写真 蔵王墓地
岡田虎二郎先生墓所
    田原市田原町蔵王
参考写真 蔵王墓地
岡田家墓所
    田原市田原町蔵王
参考 タカサキ新聞PR版   平成21年(2009)
平成22年(2010)
 
参考 広報たはら   平成22年(2010)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

↑ページTOPへ

作品略歴

岡田虎二郎は、1872年(明治5年)に旧田原藩士岡田宣方の次男として愛知県田原市田原町に生まれた。その兄弟はいずれも中等学校の教員になったが、彼だけは小学校卒業後、農業に従事した。徴兵検査では丙種不合格になった。十代後半からは、農作物の栽培法・品種改良・肥料成分などの研究に没頭、その結果、1897年の大日本農会品評会で自作米が全国一となった。また、害虫駆除のための岡田式螟虫採卵法や短冊形苗代を考案し、地元の農業関係者の間で評判となった。この頃から彼の目指すものは、作物改良から人間の改造へと向かった。人間改造は精神的肥料を要すると言い、二宮尊徳・釈迦・孔子・キリスト・ソクラテスをはじめとする古聖賢の書物を研究した。また、金原明善や清水次郎長など全国各地の名士を訪問し、議論をふっかけて論破した。

1901年、虎二郎は渡米し、滞在すること三年半、その間皿洗いなどで生計を支えながら、英独仏などの語学を習得するとともに、欧米の哲学・文学・宗教・教育関係の書物を読破した。彼が在米中に特に興味をもって研究した人物は、プラトン・ルーテル・シェ−クスピア・ゲーテ・ルソー・ペスタロッチなどであった。

虎二郎は1905年に帰国し、豊橋の素封家山本家の養子となり、一年あまり平穏な結婚生活をおくった。養家と意見が合わず、長女誕生後、養家を飛び出し、甲州(山梨県)山中に黙座した。後年、その時の模様を「絶食十日の山路、我が肉を食うこと二貫」と語っている。その後、徒歩により上京した。上京後、虎二郎夫妻の媒酌人だった元渥美郡長の松井譲の邸宅に寄寓し、ひたすら黙座した。その後、身心病弱者の救済に着手した。松井家や富豪安田善次郎家の精神病者を治療したことから、難病治療の噂が広がり、1909年頃から世間の注目を集めるようになった。キリスト教社会主義の文学者の木下尚江が、思想的行きづまりから虎二郎を訪ね、その指導と助言で安心立命を得た頃から坐の形式が確定し、世に「静坐」と呼ばれるようになった。

1910年(明治43年)には郷里田原において初めて静坐を指導し、これを契機に田原中部小学校長の伊奈森太郎を中心とする田原静坐会が発足した。1912年に実業之日本社が『岡田式静坐法』という解説書を出版したところベストセラーとなり、静坐法は一躍全国に波及する。虎二郎によれば、正しく坐ることによって身体の重心を臍下丹田に安定させることができれば、七情の調和を得て人体は自力更生し、おのずからなる発達をとげる。ああしよう、こうしようという計らいの心を断ち切って黙々と正しく坐るならば、天地みな春の心境となって、生きる力とよろこびが湧いてくるというのだ。そうなれば、どんな偉い学者や政治家や宗教家の前に出ても、つまらぬ暗示には容易にかからない明晰な精神の持ち主となる。また、すべての束縛から解き放たれた自由の別天地を体験することにより、自己本来のものを開発する糸口をつかめるというわけである。

晩年の虎二郎が携帯した手帖には、「人は妻子に対するよりも、更に高尚なる職分を有す。大和民族の良心的束縛を解放し、自由の天地に導く為に一身を犠牲に供する。即ち是なり」と書かれている。そこに虎二郎の宗教的とも言える使命感を読み取ることができる。

1920年(大正9年)、虎二郎は49歳の若さで突然逝去する。病名は急性尿毒症であり、1日3時間睡眠という過労がその原因と見られた。死を予知した虎二郎は身辺整理をしながら、「自分の一生の間に成功しようとは思わぬ」と言い、「僕はただ種子を蒔くに過ぎぬ」とも言った。日本の将来の姿を心に思い描きながら、虎二郎は逝ったのである。

↑ページTOPへ

作品紹介

明治44年12月弟井上嘉三郎への書簡の一部

静坐は主呼吸は従、呼吸は静坐を完全ならしむるの方便に過ぎず候得ば静坐の主たるは勿論に御座候得共、静坐呼吸とも心身開発の形式方便にして、其主眼とすべきは信の一字に有之候間、適当なる指導者を得ずして単に形式にのみに拘泥するは実に無益にして至愚の極と存候。畢竟信なきの行は徒らに身心を疲労せしむるのみに有之候間寧ろ大害ありて寸効をも収むる能わざる事と愚考仕候。

『岡田式静坐法』(明治45年刊行)から
静坐の姿勢の極め方
一 足の甲を重ねて端座(正座)する。
二 膝は接触させず、少し開いて坐る。少し開くのは体の重心が自然に臍下に安定するからである。
三 尻を突き出し、下腹は落ちつけ、鳩尾を落として坐る。
四 両手は軽く握り合わせて膝の上に置く。握り方は一方の手でもう一方の手の四本の指を軽く握り、親指と親指を交差させる形にする。
五 顔はまっすぐにして正面を向き、口は必ず噤む。

岡田虎二郎伝と静坐の流れ 松浦邦治 ※(生没年、不明の方は記入してありません)

右上より
14歳のころ 田原蔵王権現にて
天龍寺の橋本峨山和尚(1852〜1900)
名和靖(1857〜1926) 昆虫学者
 名和昆虫研究所
渥美青年農会 田原・野田の法華寺にて

二宮尊徳(1787〜1856)
孔子(前551〜前479)
キリスト(前4頃〜28)
釈迦(前566〜前486、前463〜前383など諸説あり)
ソクラテス(前469頃〜前399)

外遊時代の岡田虎二郎 32歳頃
金原明善(1832〜1923) 実業家
豊橋の山本き賀と結婚
 山梨甲府の山中で静坐

田中正造(1841〜1913) 政治家、社会運動家
坪内逍遥(1859〜1935) 小説家、劇作家
高田早苗(1860〜1938) 早稲田大学総長
後藤新平(1857〜1929) 東京市長

中村 彝 (1887〜1924) 画家
中原悌二郎(1888〜1921) 彫刻家
中原 信 悌二郎の妻
相馬愛蔵(1970〜1954) 実業家、中村屋主人
相馬黒光(1876〜1955) 愛蔵の妻
   中村屋
鶴田吾郎(1890〜1969) 画家
芦田恵之助(1873〜1951) 国語教育の研究者
長塚 節(1879〜1915) 歌人、小説家
原 敬(1856〜1921) 内務大臣、総理大臣
戸張孤雁(1882〜1927) 彫刻家
萩原守衛(1879〜1910) 彫刻家
 碌山美術館

石川啄木(1886〜1912)  歌人・詩人
正田貞一郎(1870〜1961) 夫婦 実業家
西田天香(1872〜1968) 宗教家、一燈園、すわらじ劇団
島村抱月(1871〜1918) 劇作家、演出家
中里介山(1885〜1944) 小説家

阿南惟幾(1887〜1945) 陸軍軍人
笹村草家人(1908〜1975) 彫刻家
森田繁治(1899〜1993) 本所中学校長、静坐研究者
木下尚江(1869〜1973) キリスト教社会主義者で、小説家。
京都 夏季静坐実習会 京都・知恩院 和順会館

京都静坐会
足利浄圓(1878〜1960)  真宗ハワイ布教師
小林参三郎(1863〜1926) 西元宗助  小松幸蔵
小林信子(1886〜1973) 服部正喬 神田国際書房社長 松下豊子
柳田誠二郎(1893〜1993) 日本銀行 能海丹詠 柴田徹士
橋本五作(?〜1932) 杉田正臣(1899〜
        児玉英一

山田寿二(1888〜1966) 後太洋電気社長
河合 貞(1900〜2002)  田原静坐会会員
石原常温(1912〜1976) 田原静坐会長

後藤嘉之 中学成章館長
伊藤武雄(1895〜1984) 日中友好協会創設者
伊奈森太郎(1883〜1961) 田原中部小学校長
山本右太郎(1863〜1921) 田原町長

内山 新(1877〜1959) 初代町立成章館長
麻蒔見外(1818〜1964) 成章中学教頭
 池ノ原会館での田原静座会
鈴木文弥
竹本和雄
森下 勲
小澤耕一(1910〜2008)

田原城三ノ丸 静坐記念塔

↑ページTOPへ

岡田虎二郎年譜
西暦(年) 年齢 事項
1872(明治5年) 1 田原町山口に田原藩士岡田宣方の次男として生まれる。
1877(明治11年) 6 田原学校(現田原中部小学校)に入学
1883(明治16年) 12 初等科全科を卒業、幼児期虚弱。
1886(明治19年) 15 高等小学校(現在の霊巌寺内)を卒業、学術優等賞を受ける。この年、諸国の偉人傑士を訪問。
1887(明治20年) 16 天竜寺の橋本峨山和尚に仏教思想と座禅を研究、以後全国遍歴。
郡内に「勧農協会」設立され、報徳精神を研究。
1888(明治21年) 17 全国古社寺を巡拝、仏相、姿勢を観察、北設報徳会の名士を訪問。
1890(明治23年) 19 足尾銅山の志士田中正造、山本長五郎の体験を聞く。
1891(明治24年) 20 板倉家の田畑四反歩を受領。
1892(明治25年) 21 徴兵検査で丙種合格(免除)、稲作に熱中、螟虫の駆除法を研究。
1893(明治26年) 22 全国の昆虫研究者、篤農家を訪問。
1894(明治27年) 23 螟虫卵駆除を発見。長岡宗好の肥料の三要素説と論争。
1895(明治28年) 24 渥美青年農会を発足、会長に就任。
1896(明治29年) 25 名和靖を田原に招聘。「第一回渥美郡昆虫講和会を開催。大日本農会品評会入賞。
論文「最少養分律について」
1897(明治30年) 26 名和靖「岡田式螟虫採卵法」を大日本農会誌に発表。昆虫講話会を開催。
心身の開発を唱え、冷水欲を宣伝。
1898(明治31年) 27 名和靖と各地で螟虫調査。農業主事に就任。昆虫講話会を開催。
1899(明治32年) 28 第一回渥美郡教職員昆虫講習会で教員を名和昆虫研究所に引率。小食の実験、乾布摩擦と冷水浴を奨励。
1901(明治34年) 30 「全国昆虫展覧会で功労賞」を受賞。県議、知事と論争、農業主事を辞職、金原明善の援助で渡米。
1905(明治38年) 34 欧州歴訪後帰国。山本き賀女と結婚して山本家に入籍。
1906(明治39年) 35 長女礼子誕生、養家を出て、山梨の内藤文治良宅に寄宿。山中で静坐。上京して兄藤十郎宅に寄宿。
1907(明治40年) 36 静坐にて難病の患者を治癒。黙して静坐、指導を乞う者あり。
木下尚江を筆頭に静坐の指導を乞うもの続々と増える。
1910(明治43年) 39 田原静坐会発足、東京では数十か所で有名人数百人が参坐。
1915(大正4年) 44 田原静坐会の指導者は伊奈校長とし、毎月三回技芸教室で実施。
1916(大正5年) 45 鳥取、岐阜、大垣、半田、豊橋、静岡、長野、甲府で指導。
1920(大正9年) 49 大正八、九年は静坐の全盛期。連日十数か所を巡回、睡眠三、四時間。
十月十七日尿毒症により死亡。十八日田原町蔵王山墓所に埋葬。

↑ページTOPへ