企画展同時開催 創建200年田原藩校成章館関係資料

開催日 平成22年5月15日(土)〜7月4日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

田原藩校成章館は文化7年(1810)、田原藩第九代藩主三宅康和の代に桜門前の広場(現田原中部小学校敷地)に創立されました。それまで藩士の私邸や私塾で学んでいた子弟に教育の場を提供することになりました。創立に尽力した藩の儒医であった萱生玄淳(1772〜1837)が『論語公冶長』第五に「子在陳曰。歸與歸與。吾黨之小子狂簡。斐然成章。不知所以裁之。」とあるところから「道を後進に育て行う学堂である」という意味で、撰名しました。藩校成章館は、以下のように区分されます。
 初期 1810〜1820 諸施設整備、教授陣充実の時代
 盛期 1821〜1863 諸芸部門の活躍隆盛時代
 晩期 1864〜1871 武芸衰退、西洋銃陣興隆の時代
孔子などの儒学の先哲を先聖、先師として祀る祭典は、江戸時代の各地の藩校で行われ、釈奠(せきてん)と釈菜の二種類があります。釈奠は、牛や羊、豚のいけにえなどを供える大典であり、釈菜はその略式です。田原藩では、2月と8月に、肉は供えず、野菜を供物とした釈菜の形式がとられました。
明治4年(1871)、廃藩により廃校となりますが、明治34年、成章館として再興、大正8年(1919)渥美郡立成章中学校、同11年郡制廃止により、県立に移管。2001年には学校として再興されてから創立100周年を迎えました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  真木定前宛書簡 渡辺崋山 天保10年(1839) 山内幸子氏寄贈
  客坐掌記 渡辺崋山 天保4年(1833)  
  文部省進達成章館制度   明治時代前期 藩関係文書448
  孫子詳解 伊藤鳳山 文久2年(1862)  
  二行書 萱生郁蔵 江戸時代後期  
  七絶詩書「大観窓ニ題ス」 伊藤鳳山 江戸時代後期  
重文 孔子像(複) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  孔門十哲像      
重文  卜商(子夏) 依田竹谷 文化13年(1816) 糸井榕斎賛
重文  言偃(子游) 文供 文化13年(1816) 菊池五山賛
重文  端木賜(子貢) 林半水 文化14年(1817) 亀田鵬斎賛
重文  宰予(子我) 文水 文化13年(1816) 竹村悔斎賛
重文  仲由 (子路) 山本文承 江戸時代後期 冢田大峯賛
重文  顔回(子淵) 喜多武清 文化13年(1816) 佐藤一斎賛
重文  閔損(子騫) 浅尾大岳 江戸時代後期 三谷東奥賛
重文  冉耕(伯牛) 小田_斎 江戸時代後期 松平定常賛
重文  冉雍(仲弓) 椿椿山 嘉永元年(1848) 筒井政憲賛
重文  冉求(子有) 後藤光信 文化13年(1816) 大窪詩佛賛
  成章館行事 井上華陵 大正〜昭和時代 個人蔵
  孔門十哲像模写      
   卜商(子夏) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   言偃(子游) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   端木賜(子貢) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   宰予(子我) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   仲由(子路) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   顔回(子淵) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   閔損(子騫) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   冉耕(伯牛) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   冉雍(仲弓) 鏑木華国 明治22年(1889)  
   冉求(子有) 鏑木華国 明治22年(1889)  
常設展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
市文 御玄関留帳   文化7年(1810) 田原藩日記206
市文 御用人方日記   安政6年(1859) 田原藩日記381
市文 公廨録   明治3年(1870) 田原藩日記437
  学半楼十幹集 伊藤鳳山 天保13年(1842) 甲乙丙3冊
  傷寒論文字攷 伊藤鳳山 嘉永4年(1851) 上下2冊
  傷寒論文字攷続 伊藤鳳山 嘉永6年(1853) 2冊
  幼学便覧 伊藤鳳山 慶応元年(1865) 天保13年初版
  大戴禮記 伊藤鳳山加筆 正徳6年(1716)  
参考 成章70周年記念写真集   昭和46年(1971)  
参考 成章八十年史   昭和58年(1983)  
参考 成章創立   平成3年(1991)  
  九十周年記念誌      
参考 創立100周年記念誌   平成13年(2001)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

↑ページTOPへ

作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

伊藤鳳山 文化3年(1806)〜明治3年(1870)

羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出るようになる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。二年にして辞し京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。

椿椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
 温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救済に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華(1835〜1887)、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

↑ページTOPへ

作品紹介

江戸時代の成章館規則書 明治3年(1870)「公廨録」一月十二日の条より

文武日課  一、六 休日  二、七 文学、但シ教授役講義其後輪講輪読可応其才  三、八 黒河原調練、但シ終日稽古之事  四、九 釼(剣)術  五ノ日 追手調練  十ノ日 黒河原的射、但シ終日稽古

重要文化財 孔子像 天保9年(1838) 渡辺崋山

款記に「天保戊戌五月念三日、後学三宅友信薫沐拜写」とあり、その下に白文方形印の「友信之印」があります。友信は第十一代田原藩主三宅康友の子で、兄の藩主が相次いで亡くなり、本来の三宅家の血統を継ぐべき地位にありましたが、田原藩は姫路藩から養子を迎えました。この作品は、時には藩主、全藩士の礼拝の対象になるため、崋山は家臣である自分の名を入れずに、三宅家直系の血筋でありながら、藩主にならず、江戸巣鴨の下屋敷に隠棲していた当時三十三歳の三宅友信の名で制作しました。落款の書体は崋山の筆跡です。
 また、この作品は中国唐代の呉道玄の筆と伝えられる孔子像を基にしたものと思われます。この孔子の聖像と十人の孔子門下の十哲像とともに田原藩校成章館春秋二回の釈奠の際に掲げられ、明治時代以後、田原城本丸跡に建つ巴江神社に宝物として保管されていました。

※孔門十哲像の各作品解説は『崋山会報』に掲載されています。

顔回子淵 第6号
閔損子騫 第9号
冉耕伯牛 第10号
冉雍仲弓 第11号
宰予子我 第12号
端木賜子貢 第13号
冉求子有 第14号
卜商子夏 第15号
仲由子路 第16号
言偃子游 第17号

↑ページTOPへ