平常展 渡辺崋山と師の山水画

開催日 平成22年1月5日(火)〜2月14日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は、江戸時代後期を代表する文人画家であり、人物画・花鳥画も多く描いているが、師の谷文晁は山水画を最も得意とした。谷文晁の師であった狩野派の画家、加藤文麗の作品もあわせて展示します。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  画学斎図藁 谷文晁 文化9年(1812)  
  日本名山図会 川村寿庵谷文晁 江戸時代後期 文化元年(1804)『名山図譜』として出版3冊
  日光山志 植田孟縉
谷文晁・渡辺崋山ほか
天保8年(1837) 5冊
  熊野舟行図巻(複) 谷文晁 文化元年(1804) 原本山形美術館蔵
重文 四州真景図(複) 渡辺崋山 文政8年(1825) 原本個人蔵
  山水之図 谷文晁 江戸時代後期 個人蔵
  千山万水図 谷文晁 文化4年(1807)  
  李白観瀑図 谷文晁 文化年間  
  松雪蝙蝠図
雪竹鶺鴒図
加藤文麗 江戸時代中期 対幅
  楼閣山水図 加藤文麗 江戸時代中期  
  秋山孤亭図 谷文晁 天明年間  
市文 蘭亭禊会之図 谷文晁 文化2年(1805)  
  三夕之図 谷文晁 天保9年(1838) 個人蔵、対幅
  雪山桟道之図 渡辺崋山 文化年間 個人蔵
  秋渓漁夫図 渡辺崋山 文政年間 個人蔵
  千山万水図(複) 渡辺崋山 天保年間 原本個人蔵
市文 秋山瀑布図 渡辺崋山 文政5年(1822)  
  米法山水図 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
  秋景游賞図 渡辺崋山 江戸時代後期 井上竹逸旧蔵
市文 晴風万里図 渡辺崋山 天保8年(1837)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。
田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明八年(一七八八)二十六歳で田安徳川家に出仕。寛政四年(一七九二)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄がい、立原杏所がいる。

加藤文麗 宝永3年(1706)〜天明2年(1782)

伊予大洲藩主加藤泰恒(一六五七〜一七一五)の六男として生まれ、名を泰都、通称を織之助、予斎とも号す。幕府の西丸小姓組番頭をつとめた。画を狩野周信に学び、谷文晁の最初の師として知られる。

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

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作品紹介

画学斎図藁 谷文晁

文晁は白河藩主松平定信付の御用絵師であった。文化年間(1804〜1818)前半も、公務に多忙であったが、この年、定信は隠居し、楽翁と号し、江戸築地の欲恩園に転居している。文晁が定信の付人を免ぜられた年である。この資料は180丁以上に及び、題箋は「画学斎図藁」と印刷されたものが貼り込まれている。文晁自身が作らせた題箋かは不明だが、年に数冊のペースで制作されるとすれば、必要であったかもしれない。1丁目表の扇面形の余白には『正月九日』、1丁目裏には「正月十一日」の記述が見られる。1月15日には文化4年にも描いた『八大竜王図』(東京都済松寺蔵)と同構図の縮図がスケッチされている。注文画の控が多いが、2月4日には白文方形印の「文晁之印」と朱文方形印の「画学斎」、朱文長方印の『重陽生』(文晁は9月9日生まれ)が捺され、「重陽生」の横には「銅印 像鈕」「熊山篆」の添え書きも入れられ、入門者の記録や覚え的な事項も書かれている。前半に多少月日の交錯と考えられる場所も散見され、後世の綴り替えの可能性もあるが、概ね正しく月日が記入され、末尾近くでは7月の記述があり、これだけの作品群を半年強でこなしたというのは、驚くばかりである。『田原市博物館館蔵名品選第2集』に全図版が見られるCD-ROMが付録として付いている。

日本名山図会

江戸在住の南部出身の町医師川村寿庵(?〜1815)が編集したもの。当初『名山図譜』と題し、刊行されたが、のちに『日本名山図会』と改題され、何度も版を重ね、出版された。

四州真景図(複製) 渡辺崋山

文政8年(1825)6月29日から7月上旬にわたり、33歳の崋山が武蔵・下総・常陸・上総の4か国を旅した時のスケッチで、全4巻から成る。1巻は行程記録、2巻は行徳・釜原など10図、3巻は潮来・銚子など11図が載せられている。天保11年(1840)、田原蟄居中に着色を施したことが日記に記入される。

千山万水図 谷文晁

賛詩に、「浪遊十歳倦初還家/住半山松桂間渓上小橋/依舊在亥猿守着白雲/関 栗山彦題」とある。「栗山彦」とあるのは、柴野栗山(1736〜1807)で、讃岐国三木郡の出身で、八栗山の近くで生まれたため、栗山と号した。18歳で江戸の昌平黌に学び、明和4年(1767年)から阿波国徳島藩主・蜂須賀氏の儒員となり、世子の侍読となる。のち天明8年(1788年)昌平黌の教官となり、朱子学を厚く信奉して、古学を排斥した。経世実用の学としての朱子学を極めようとしていた。松平定信による「寛政異学の禁」は、彼の建議がいれられたものである。また、古賀精里・尾藤二洲とともに「寛政の三博士」といわれ、林述斎とともに、昌平黌の学問を復興させた中心人物の1人であった。
「丁卯春晩寫於寫山楼中 文晁」とあり、文化4年の作であることがわかる。鳥瞰図的構成の山には、米法山水の点苔を施している。寛政文晁時代を終わって米法山水への興味の発露と共に墨調の解析と雲煙の巧みな表現力が融合した優品である。

李白観瀑図 谷文晁

李白(701〜762)は、唐の詩人で、四川の人。その母が太白星を夢見て生んだので太白を字とした。酒を好み、奇行が多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に関係して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝えられる。杜甫と共に並び賞された詩人。李白が瀑布を見て、詩想を練っている様子を描いている。滝を見上げる人物を描く作品には「高士観瀑図」と題されるものもあるが、従者を横に配しているため、「李白観瀑図」と考えられる。
落款の「文晁」の字から文化年間(1804〜18)で、文化4年から5年頃の作例と考えられる。墨色の諧調が増殖していくと、のちの烏文晁時代のあふれるばかりの躍動感ある作品となる。

秋山孤亭図 谷文晁

落款に「山東谷文晁」を用いていることから天明年間(1781〜89)の作例と考えられる。天明年代は、文晁の修行時代に属し、試作的で、筆力もしまらないという意見もあるが、寛政期の清澄、繊細、高雅という印象にあまりに影響されている。手本があるのではあろうが、思い切りのよいその力強い線描は、後半期の文晁作品への予感を感じさせる。遊印に「天開図画」の印を使用しているのは、雪舟への憧れと尊敬の気持ちを発露したものか。

蘭亭禊会之図 谷文晁

蘭亭の会は、晋の時代である永和9年(353)3月に、謝安(320〜385)・王羲之(307?〜365?)ら名士41人が蘭亭に会し禊をし、曲水に觴(さかずき)を流して詩を賦したことを指す。画面中央の庵の中で机上揮毫しているのが王羲之である。
後半生では、需要があったのか、更に濃彩な青緑山水図が多くなってくる文晁であるが、文化年間前半ではまだ青緑、朱紅等のあでやかな色を淡く使い、周景との調和を保とうという意識が感じられ、画面に気品が漂う。

秋景游賞図 渡辺崋山

賛に「白雲紅樹模秋 相携二三老叟 林間立杖 鳥鳴石上ト居煖酒」とある。弟子である井上竹逸の旧蔵印が捺されている。

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