平常展 鈴木敏雄陶磁器コレクション

開催日 2008年11月14日(金)〜12月27日(土)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 田原市博物館:企画展示室2

展示作品リスト

企画展示室2
通番 作品名 寸法
8 八角瓢形豆彩花瓶 8.0×18.0×67.5
5 織部灯籠 21.0×21.0×58.0
3 古伊万里色絵有蓋大壺 20.0×20.0×71.0
34 染付辰砂龍文壺 23.5×25.0×56.0
26 釉裏紅草花文大壺 25.5×23.0×52.0
38 赤絵百鹿壺 26.3×24.0×41.0
31 紅彩青花竜濤文鬼面耳付大壺 23.0×24.5×60.5
28 粉彩桃文大壺 35.8×32.0×81.5
32 黒地五彩竜文大壺 11.8×29.0×63.0
44 李朝掻き落とし壺 21.8×23.0×75.0
33 百鹿壺 20.0×30.0×54.0
37 染付龍麒麟文壺 20.5×22.0×35.5
20 磁州窯大壺 15.0×15.8×32.8
90 唐三彩荷葉鳥文三脚盤 29.0×18.0×5.8
89 青花山水人物鉢 祥瑞 25.6×12.3×6.4
94 磁州窯白地黒花魚文盤 41.0×25.7×5.6

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

鈴木敏雄コレクションについて

 鈴木敏雄氏は、大正5年(1916)旧赤羽根町の赤中区(現田原市赤羽根町西瀬古)に生まれ、幼少の頃より学業に励み、豊橋市旭本町に鈴木眼科医院を開業されました。氏は、眼科医を営むかたわら海外旅行(主に 中国・朝鮮)にいそしみ、その先々で趣味とされていた陶磁器等を収集されました。
 その後、赤羽根文化ホール展示室を鑑賞に訪れた際、「生まれ故郷である、赤羽根の人たちの文化振興に役立てたい」と、平成9年国内外で集められた118点余りの陶磁器等を寄贈してくださりました。展示品はそのコレクションの一部です。心ゆくまでご鑑賞ください。

↑ページTOPへ

鑑賞のポイント

織部焼

 慶長年間(1596〜1615)から寛永年間(1624〜44)に美濃で焼かれた斬新奇抜な加飾陶器の総称。織部の称は、慶長年間に天下一の茶の湯宗匠であった古田織部正重然(1544〜1615)の受領名から呼ばれたもので、古田織部の好尚を反映した陶器と考えられている。しかし、文献資料には全くその事実が記載されておらず、唯一、個人が所有する織部沓茶碗に古田織部の花押を鉄絵で記した作品があり、これが直接の接点を伝えるにすぎない。

古伊万里

 伊万里焼の一作風で、主に江戸中期の18世紀末までにつくられたものをいう。その概念も時代によって推移してきた。昭和30年代までは、古伊万里はほぼ江戸時代の伊万里焼全般を指していた。その主体をなしたのは、色絵では金襴手に代表され、染付では幕末の19世紀前半、天保年間(1830〜44)に盛行した染付の大皿類まで含んでいた。その後、考古学による古窯の調査が開始され、伊万里焼の作風が多様であることがわかるにつれ、古伊万里の概念は縮小していった。

百鹿壺

 中国、清代の康煕年間(1662〜1722)に現れ、乾隆年間(1736〜95)に流行した装飾用磁器の一種。大口だがすぼまった口縁で、丸みのある腹部がやや下に垂れ、虁龍形の双耳がついている。腹部には百頭もいるかのような多数の鹿が遊ぶさまを描いている。百鹿は音通から百禄とも呼ばれ、百は百齢、禄は俸禄を得ることの寓意であり、立身出世や富貴に通じる吉祥文である。

掻き落とし

 器の表面を削り落とし、表面とは違う色を出すことで模様を表す装飾法。素地に別の色の化粧土、釉薬、絵具などを重ね、二層以上となった上層の一部を削り落とし、下層の色を出して模様とする。削り落とす際に、模様部分を削り落とすものと、模様の周囲を削り落として模様を浮かび上がらせるものとがある。一般的には素地に化粧掛けをして、その化粧土の部分を削り落とす手法がとられる。

磁州窯

 中国の五代末から近代まで続いた民窯。河北省邯鄲市郊外の観台鎮、東艾口村、冶子村、彭城鎮、申家荘、青碗窯、栄華塞、南蓮花村、臨水、観兵台などで窯跡が発見されており、このうち観台窯では大規模な発掘調査が行われた。民衆の日常器を量産した窯で、北宋の大観2年(1108)の秋に洪水によって埋もれた町、鉅鹿の遺跡からは磁州窯の製品が数多く発見されており、生活用具として広く普及していたさまがうかがえる。鉄分を多く含む灰色の素地に薄く白化粧を施し、透明釉を掛けて焼成するのが基本的な技法で、白無地の器のほか、白化粧を削り落として文様を表す掻き落とし、鉄絵具を用い筆彩で文様を描く鉄絵、あるいは三彩や五彩の技法など、多彩な文様装飾が施された。また、黒釉が掛けられた器物も焼造している。類似の製品を焼いた窯は、河北省、北京市、河南省、安徽省、山西省、山東陝西省といった華北地方一帯に広く分布しており、これらの窯の製品を包括して磁州窯と呼ばれる。したがって、磁州窯という語は、特定の窯場を指すとともに、作風の呼び名としても用いられている。白化粧の技法は、唐時代の白磁の系譜を引くものであり、実用品としての需要の高まりに応えるなかで磁州窯独特の作風が形成されていった。白化粧と透明釉の組み合わせは、通常白釉と呼ばれ、白磁と比較して柔らかみと温かみを感じさせる質感を具えている。

唐三彩

 中国で唐時代の7世紀末期から8世紀前半にかけて焼造された、複数の低火度鉛釉を掛け分けて彩られた陶器。白、緑、褐色の三色のものが多いが、藍色が加わった4色のもの、あるいは2色だけのものも、技法として通常はすべて唐三彩と呼んでいる。器形には万年壺、鳳首瓶、各種の盤、碗、杯などのほか、人物、鎮墓獣、馬、駱駝など各種の俑がある。堂々とした量感を具えているものが多く、また異国趣味が横溢した当時の文化を反映して、左右に把手のついた龍耳瓶、口部を鳳凰にかたどった鳳首瓶などの西方起源の器形や、貼花や印花の技法による西アジア風の文様が流行した。主に唐時代の都であった長安・洛陽の貴族の墳墓から出土しており、豪華な葬礼を競う厚葬の風習の高まりとともに、明器として盛んに制作された。産地としてこれまでに河南省の鞏県窯、陝西省の銅川黄堡窯(耀州窯)、河北省の邢州窯などが確認されている。

↑ページTOPへ