平常展 渡辺崋山と椿椿山
展示期間 平成19年3月24日(土)〜平成19年5月13日(日)
展示作品リスト
特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
重文 画譚(がたん) 渡辺崋山
(わたなべかざん)
天保11・12年 (1840・41)  
重文 絵事御返事(えごとおへんじ) 渡辺崋山 天保11・12年(1840・41)  
重文 麹町一件日録(こうじまちいっけんにちろく) 椿 椿山
(つばきちんざん)
天保10年(1839)  
  一覧縮図(いちらんしゅくず) 椿 椿山 文政2・3年(1819・20)  
  消夏展観縮図(しょうかてんかんしゅくず) 椿 椿山 文政5・6年(1822・23)  
  過眼録(かがんろく) 二十七 椿 椿山 天保10年(1839)  
  過眼録(かがんろく) 二十八 椿 椿山 天保11年(1840)  
  過眼録(かがんろく) 二十九 椿 椿山 天保11年(1840)  
  過眼掌記(かがんしょうき) 五十三 椿 椿山 嘉永6年(1853)  
  琢華堂椿山先生画帖
(たっかどうちんざんせんせいがじょう)
椿 椿山 江戸時代後期 長尾華陽旧蔵
  石譜(せきふ) 椿 椿山 天保13年(1842)  
重文 渡辺崋山像画稿(わたなべかざんぞうがこう) 椿 椿山 天保14年(1841) 個人蔵
重文 渡辺崋山像画稿(わたなべかざんぞうがこう) 椿 椿山 天保年間〜嘉永年間 個人蔵
  琢華堂画譜(たっかどうがふ) 椿 椿山 天保14年(1843) 10冊のうち6冊
市文 春秋山水図(しゅんじゅうさんすいず) 渡辺崋山 天保年間  
  藤花雀蜂図(とうかじゃくほうず) 渡辺崋山 天保10年(1839) 個人蔵
  猛虎図(もうこず) 渡辺崋山 天保7年(1836) 個人蔵
  猛虎図(もうこず) 伝 椿椿山 江戸時代後期 個人蔵
  芝蘭玉樹図清香萬年図
(しらんぎょくじゅずせいかまんねんず)
椿 椿山
館 柳湾 賛
天保2年(1831)  
  琢華堂日録(たっかどうにちろく) 椿 椿山 文政〜天保年間  
  茗荷茄子秋虫(みょうがなすあきむし) 椿 椿山 天保9年(1838)  
  山水図(さんすいず) 椿 椿山 天保14年(1843)  
  藕花香雨図(ぐうかこううず) 椿 椿山 弘化2年(1845)  
  八百延年図(やおえんねんず) 椿 椿山 天保14年(1843)  
  芥子園画伝二集(かいしえんがでんにしゅう)   江戸時代後期 椿椿山遺品
  牡丹之図(ぼたんのず) 椿 椿山 嘉永3年(1850)  
重文 渡辺崋山像(わたなべかざんぞう)(複) 椿 椿山 嘉永6年(1853)  
  歳寒三友図(さいかんさんゆうず) 椿 椿山 嘉永7年(1854)  

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。

作品紹介
●渡辺崋山 自筆画論「画譚・絵事御返事」
 渡辺崋山が田原へ蟄居して後、江戸の椿椿山から画作について尋ねられた解答を手紙で送っている。この問答を2冊の冊子にまとめたものである。『画譚』には、椿山の堂号である「琢華堂蔵」と記し、「椿山山房」「全楽堂文庫」の2印が捺される。
●椿椿山 麹町一件日録
 渡辺崋山が蛮社の獄で捕えられ、その救済活動の記録である。蛮社の獄の進行状況や情報、救済の方法など、几帳面な椿山らしく克明に記録されています。
●椿椿山 過眼録 二十七・二十八・二十九
 表紙に「第廿七」の貼紙が貼られたものには、表紙に「過眼録 天保己亥 琢華堂」と書かれ、高久靄p(1796〜1843)所蔵作品の縮図が多く見られ、表紙に「過眼録 天保庚子」と書かれ、「椿氏琢華堂図書記」の印が捺された貼紙が貼られている。「第廿八」の貼紙が貼られたものには、椿山の息子である華谷の加筆も見られる。表紙に「過眼録 庚子第二 椿氏蔵」と書かれた貼紙のものには、「第廿九」の貼紙が貼られ、中に「全楽堂文庫」印が捺される。
●椿椿山 過眼掌記 五十三
 「第五十三」には、「過眼掌記 癸丑甲寅」と書かれ、「椿山山房」印が捺される。この資料は平成6年に田原市博物館(当時は田原町博物館)に小川義仁氏から一括寄贈された椿椿山の手控冊類・日記、崋椿系画家の手控冊類、画稿・粉本類に含まれている。椿山の手控冊は14冊あり、椿山の死去は嘉永7年であるので、この冊子は晩期にあたる。
●椿椿山 渡辺崋山像
 巻き止めには「崋山先生四十五歳癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られます。この像には三回忌の年にあたる天保十四年六月七日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化四年四月十四・十五日に描かれた画稿の存在が知られています。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めています。15年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝えています。
 黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据え、面貌はとくに精緻に描かれていますが、衣服は簡略に写意的に描き、切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいます。机に置いた右手は、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようです。生前の崋山は手の動きを起点とし、椿山に語りかけていたのでしょうか。
 なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのでしょうか。崋山は、その翌年に、藩の職を辞す願書を提出し、自らの蔵書を藩に寄贈します。つまりこの年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたります。この一連の事情を知っている椿山は、その四十五歳の転機の姿ポートレートとして記録し、供養したとも考えられます。
●椿椿山 石譜
 劉松年(南宋)、元人、荊浩(唐)、関同(宋)、董源(南唐)、藍田叔(藍瑛・明)、ヲ南田(清末)など様々な石の描法が描かれる。前の四法は文人画のバイブル『芥子園画伝』の「石法」から巻頭の賛文(三面法の解説)とともに引用している。また『雲煙略伝』に椿山は渡辺玄対旧蔵の明人の名石巻を入手し愛玩したことが記されている。藍瑛の法はおそらくこの名石巻から、ヲ南田は自ら見た作品からそれぞれ引用し、その描法を加えてこの作品を構成したものであろう。
墨で石の輪郭を描き、わずかに代赭を加える。「劉松年皴法」、「霊壁雨華」では岩絵具の上澄みを重ねる。椿山は岩、石の表現が今ひとつである、という評価をときおり耳にする。しかし、それは岩単体での評価で、画の全体的なバランスを考えれば、他のモティーフを引き立たせるための意図的な表現方法と言える。この作品は単体で石が描かれるが、石の持つ厳しさではなく、人に愛玩される石の持つ優しさを表現できていないだろうか。柔らかな筆線、上品な色彩、清雅な味わいは椿山の特色を十分に発揮している。椿山の紙本作品での山水、石表現は関東の文人画としては異質であり、この画趣は田能村竹田に通じるものがある。
さて、文房清玩の一つにもなっている愛石趣味は中国にひたすら憧れる文人たちの欠かせぬものとなっている。文人は徹底的にモノにこだわる。この「癖愛」と呼ばれる文人のモノのこだわりは菊、梅、竹の栽培、石、骨董の収集、茶、酒の嗜みなど広範囲にわたる。最後の文人富岡鉄斎は印癖、茶癖、旅行癖、読書癖を楽しんでいた。椿山は茶癖家であったが、また愛石癖家でもあったのだろう。これらモノを媒介として世俗を離れ、自らの世界に没頭し、欲や得を忘れ、あこがれの文人の世界に身を置いたのである。そのように考えれば、画巻はまさに、癖愛家にうってつけの形式である。この画巻は、憧れの中国の文人趣味、絵画作品の雰囲気が凝縮されたもので、注文主はこの画巻をだれにも邪魔されず、一人開き、ほくそえみながら鑑賞していたに違いない。
 巻末に渡辺華石の極書があり、華石所蔵の「琢華堂縮図」天保13年10月28日に奥州伊達郡桑折村(現福島県伊達郡桑折町)高木一郎の依頼にかかることが記される。
 
作者の略歴
●渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
 
●椿椿山 [つばき ちんざん] 享和元年(1801)〜安政元年(1854)
 椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。
 
田原市博物館/〒441-3421 愛知県田原市田原町巴江11-1 TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
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