渡辺崋山〜水墨の妙
  展示期間 平成18年10月27日(金)〜平成18年12月10日(日)

 今回は、墨を基調とした作品を中心に展示します。「水墨画(すいぼくが)」とは、「墨」で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言い、中国で山水画の技法として成立し、文人官僚の余技として、四君子(松竹梅菊)の水墨画が行われました。その後、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作されました。明代には花卉・果物・野菜・魚などを描く水墨雑画も描かれました。「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれなどを表現の要素とした中国風の描法によるものを指す。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含まれます。

展示作品リスト
特別展示室
指定 作 品 名 作者名 年 代 備  考
市文 帰都日録(きとにちろく) 渡辺崋山
(わたなべかざん)
文政10年
(1827)
 
  墨蘭図画冊(ぼくらんずがさつ) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  坡公黠鼠図(はこうかつそず) 渡辺崋山 江戸時代後期

 

  一葉竹詩(いちようちくし) 渡辺崋山 天保年間  
市文 花鳥帖十二図(かちょうじょうじゅうにず) 渡辺崋山 天保2年
(1831)
 
  樹陰避雨図(じゅいんひうず) 渡辺崋山 文政年間  
市文 糸瓜俳画之図 (へちまはいがのず) 渡辺崋山 天保年間  
  白衣大士并写経(びゃくえだいしならびしゃきょう) 渡辺崋山 文政5年
(1822)
 
  三亀之図(さんきのず) 渡辺崋山 天保3年
(1832)
 
  骸骨之図(がいこつのず) 渡辺崋山 天保3年
(1832)
 
  蓑笠画賛(みのかさがさん) 渡辺崋山 天保4年
(1833)
 
市文 月下芦雁之図(げっかろがんのず) 渡辺崋山 天保8年
(1837)
 
  高士観瀑図 (こうしかんばくず) 渡辺崋山 天保9年
(1838)
 
  香祖図(こうそず) 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
  米法山水図(べいほうさんすいず) 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
  花鳥之図(かちょうのず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  墨竹之図(ぼくちくのず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  布袋図(ほていず) 渡辺崋山 天保年間  
  痩馬図(そうばず) 渡辺崋山 天保9年
(1838)
個人蔵
  乳犬図 (にゅうけんず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  墨蘭図(ぼくらんず) 渡辺崋山 天保年間  

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。
※また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

作品紹介
●田原市指定文化財 花鳥帖十二図(かちょうちょうじゅうにず) 渡辺崋山 天保2年(1832)
 絵の中心に鳥を描き、周囲には花卉、樹木を配置する。各図には瓢形印の「登」印を捺している。最後の図に「辛卯五月寫於全楽堂中崋山登」とあり、天保二年五月の作であることが知られる。この作品を描く前月にローセルの『虫譜』を小関三英から借りているが、外国の書物の銅版画によるカラフルで、精緻な挿絵を見て、外国の博物学を学んでいる。この作品では、水墨のみで描かれ、従来の古画の摸写と思われるものであるが、鳥の立体感は充分に表現され、崋山の観察対象は古画作品にとどまっていないことがわかる。
 
●渡辺崋山 樹陰避雨図(じゅいんひうず) 文政年間 田原市博物館蔵
右幅に「渡邊登筆」と款記がある。崋山の縮図冊には文人画の先達ばかりでなく、狩野派や土佐派などあらゆる分野の縮図が記録される。江戸の都市風俗を描いた英一蝶などを意識したものか。突然のにわか雨に雨宿りに集まった人々を右幅に、一本の傘に寄り添う三人を左幅に描く。下を向いて飛ぶ燕や三人に付き添う足の犬もかわいらしい。崋山が得意とした動きのある風俗画である。
 
●田原市指定文化財 糸瓜俳画之図(へちまはいがのず) 渡辺崋山 天保年間
添えられた俳句に「下手乃かく絵こそまことの糸瓜かな」とあり、落款に「崋山画また題」とあり、印は捺されない。画面左上から糸瓜がたれ、中央に葉、画面右へ向かって蔓が延びる。水をたっぷり含ませ、たらし込みの技法で描く。
崋山は、二十代から俳諧師五世太白堂加藤?石と、また?石没後は、六世江口孤月とも親交があった。崋山自身も俳諧をよくし、太白堂一門の『桃家春帖』『華陰稿』『月下稿』などに二十年にわたって俳画の挿絵を提供している。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、全体に上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山の俳画観を具現化したものとして貴重である。
 
●白衣大士并写経(びゃくえだいしならびしゃきょう) 渡辺崋山 文政5年(1822)
落款には、「文政壬午仲春書於全楽堂一塵不到處 華山邉登併寫」とある。
 
●骸骨之図画道名巻(がいこつのずがどうめいかん) 渡辺崋山 天保3年(1833)
崋山から弟子の高木梧庵に絵手本として与えられたものと伝えられている。梧庵は、名島氏の出生で北村・高木の二姓を名乗り、通称は真吉・秦吉・晋吉といい、のち縫殿之介と称した。号を梧庵・愛葵・香遠・鴨青・水壺・南梧里・鴨川志摩丸・雲錦亭等を名乗る。天保五年三月二十日に崋山から梧庵へ京都の季鷹流狂歌の宗匠山本家へ養子となったことの祝い状があり、この頃に京都へ移ったようである。加茂の社に仕えて雑掌・執事を勤めた。天保二年の九月崋山が相州厚木に旅行した時と、同年十月桐生・足利に旅行した時、梧庵が随行したことが『遊相日記』『毛武游記』に見える。また、梧庵は蛮社の獄後、田原へ幽居した崋山を訪ね、田原龍泉寺に宿泊した。画学に関する手紙の往復も見られ、天保五年までは崋山と非常に近い関係にあった人物である。この図は日本ではなかなか見ることのできない人の骨格を描いており、崋山は外国から導入される博物学への興味を持っていたのであろう。
 
●布袋図(ほていず) 渡辺崋山 天保年間
落款に「行也布袋、坐スルモ布袋、想エバ布/袋ヲ、何等自在ナリ、学釈道生筆 邉登」とある。
 
●乳犬図(にゅうけんず) 渡辺崋山 江戸時代後
 犬は縄文時代から人の友でしたし、旺盛な繁殖力から安産と子育てのお守りともなっていました。この「渡辺崋山の心象」では、生物画として「鳥」を画題としたものや「猛虎図」(崋山会報第12号掲載)などを取り上げました。十代から長崎に一七三一年に来舶した沈南蘋作品を模写するなど崋山は鹿・馬・虎などを多く描いています。崋山が生きた江戸時代でも、「生類憐之令」を出した五代将軍綱吉の例をあげるまでもなく、犬を飼うことは決して珍しいことではありませんでした。崋山よりやや早い時期の作家で京都を中心に活躍した円山応挙や伊藤若冲も多く描いています。崋山は、二十六歳の時に描いた「一掃百態図」(重要文化財・田原市蔵・崋山会報第8号掲載)にも蒲鉾売りの行商人が持つカゴに鼻先を突っ込んでいる犬や江戸市中を行き交う人の間を群れで歩く犬、寝そべっている犬を描いています。食糧が豊富な都市では野犬も多く、ごみ処理の役割も果たしていたようです。犬は十二支にも数えられ、大名の中には中国や西洋から渡来する犬を飼育するものもあり、絵画にもそれらの珍しい種類が描かれます。また、崋山が多く残した手控画冊の中にも能狂言に使用したと考えられる犬の面のスケッチ(天保三年「客坐掌記」重要美術品・田原市蔵・崋山会報第9号掲載))や中国から愛玩用として輸入され、室内犬としてよく登場する狆(ちん)(天保八年「客坐掌記」(重要美術品・個人蔵)が見られます。崋山が求めた写実を表現するのにも身近な存在である犬は格好の題材となったのでしょう。また、現在所在不明となってしまいましたが、崋山が田原に蟄居していた当時の幽居を描いた「幽居図巻」(昭和十六年『渡辺崋山先生錦心図譜』)にも家の前に犬が描かれています。崋山もぬくもりのある存在として飼っていた可能性もあります。最晩年と考えられる「乳狗図」(黒川古文化研究所蔵)ではポインターに似た母子の犬が描かれています。

今回、紹介する「乳犬図」は「乳狗図」と同様に母子二匹の犬を題材にしています。ほとんどが墨を基調とした没骨法で描かれ、墨の濃淡で母犬の毛描きが表現されています。わずかに目と口のみに着色がなされています。母犬は、首をやや左にひねって、子犬を守り、いとおしむように腹の乳を子に向けているところです。子犬の口の中は代赭で塗られることにより、口をあけている様がわかり、まさに母の乳をもらう瞬間を描いています。画面右上から左斜め下に母子犬が描かれ、左上には何も描かれていません。母犬のヒゲの鋭い線や下半身から尾にかけては素早い筆さばきが感じられます。一見荒々しく感じられますが、その筆には勢いが立体感に変わる瞬間を見せられるようです。

この作品は、「老狗養雛狗図」として『國華一三七号』に、明治時代、埼玉県議会初代議長となり、荒川の突堤を私費で築いた竹井家の所蔵品として紹介され、熊谷で本陣を営んでいた竹井家の先代が曲亭馬琴の書いた読本『南総里見八犬伝』に登場する里見義實の愛犬、八房を画題として依頼した、とのエピソードを伝えています。東京美術青年会編『渡辺崋山先生錦心図譜』(昭和16年発行)第270図にも紹介されています。
 
●墨蘭図(ぼくらんず) 渡辺崋山 天保年間
詩に「倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満湘」、落款は「随安敬」とあり、朱文亀甲印の「登」印を捺す。読みは「石に倚って疎花痩せ、風を帯て細葉長し。 霊均の情夢遠く、遺珮湘につ」となる。霊均は戦国時代の楚の人で、屈原(前343頃〜前277頃)の字である。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが、妬まれて失脚、水のほとりで蘭を取って身に付け、汨羅(べきら)に投身した。その高潔な屈原のことを蘭に添えたものである。天保10年(1839)にやはりこの詩を添えた作品「蘭竹双清」がある。
 
作者の略歴
●渡辺崋山[わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。


次回予告

平成18年12月14日(木)〜平成19年2月4日(日)
●渡辺崋山の家族〜渡辺如山没後170年(特別展示室)
如山(1816〜1837)は崋山の末弟で、椿椿山に絵を習いますが、若くして亡くなっています。

●田原の歴史〜市指定文化財を中心に(企画展示室1)

市指定文化財は100件に上ります。重要美術品も展示

●田原の歴史〜川地遺跡(企画展示室2)

「帰ってきた縄文人!! 川地遺跡資料」を展示


※12月12日(火)〜13日(水)は展示替のため臨時休館

田原市博物館/〒441-3421 愛知県田原市田原町巴江11-1 TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp