初公開 田原の歴史〜岡田虎二郎−静坐法とその思想
展示期間 平成17年3月25日(金)〜平成17年4月24日(日)

 岡田虎二郎(1872〜1920)は明治5年に田原藩士岡田宣方の子として田原に生まれ、高等小学校卒業後、農業に従事し、渥美郡農業主事となります。その後、彼の目指すところは人間の心身開発へと向かいます。30歳で単身渡米し、3年後に帰国、人間本来の自然体形と呼吸法を基とした静坐法を創案し、自身一変して堂々たる体躯となりました。35歳で上京し、キリスト・釈迦・孔子・ソクラテス・二宮尊徳の精神を師とし、親鸞の信仰を心とし、静坐法を形として、日本人の心身開発に力を尽くし、皇族・軍部・政治家・大学・会社の中心層の名士から庶民まで、一世を風靡し、これに帰依する者、1万人に及んだと伝えられています。田中正造・木下尚江などをはじめとして多くの人が虎二郎を偉大な人物として称賛しました。一週間に77会場で指導し、一日の睡眠は3時間で、日曜祭日も休まず、惜しくも大正9年、49歳で、逝去され、田原蔵王墓地に葬られました。岡田虎二郎は、書いたものは誤って読まれることがあると言って、著書も出さず、日記も残しませんでした。今では「忘れられた思想家」となりましたが、田原には出身地であることで、田原静坐会があり、発足して95年が経ち、多くの関係者が資料を持ち寄り、「春堂文庫」としてまとめられています。今回、初めてその資料を公開します。

 一呼吸一呼吸に自己と言う大芸術品を完成せよ。教育とは太陽の光のような愛である。

 
展示作品リスト
企画展示室1
番号 作品名 作者名 年代 備考
123 岡田虎二郎
肖像写真
  大正4年(1915)頃 44歳
  岡田虎次郎像(おかだとらじろうぞう) 松浦邦治
(まつうらくにじ)
昭和60年(1985)  
  若き日の虎二郎      
参考写真 辻広場(つじひろば)
(岡田虎二郎邸跡)
    田原市田原町西山口
29 生家大戸口の戸車(せいかおおとぐちのとぐるま)   慶応元年(1865)建築  
14 岡田虎二郎先生葬祭祝詞文(おかだとらじろうせんせいそうさいしゅくしぶん)並びに生地・生家見取図(せいかみとりず)      
写真1 父 岡田宣方(おかだのぶかた)   明治29年(1896) 58歳
126-1

田原学校下等小学第八級卒業証書(たはらがっこうかとうしょうがくだいはちきゅうそつぎょうしょうしょ)

  明治11年(1878) 6歳
126-2 田原学校下等小学第五級卒業証書   明治15年(1882) 10歳
126-3 田原学校小学初等科第二級卒業証書   明治16年(1883) 10歳
126-4 渥美郡役所田原学校初等二級学術優等三通賞   明治16年(1883) 10歳
126-5 田原学校小学初等科第一級卒業証書   明治16年(1883) 11歳
126-6 愛知県渥美郡二十九学区田原学校小学初等全科卒業証書   明治16年(1883) 11歳
126-7 田原学校小学初等全級卒業学術優等褒章   明治16年(1883) 11歳
126-8 田原学校中等五級卒業学術優等褒章   明治17年(1884) 12歳
126-9 渥美郡役所田原学校中等五級卒業学術優等賞   明治17年(1884) 12歳
126-10 愛知県渥美郡役所田原学校中等全級卒業学術優等賞   明治19年(1886) 14歳
写真2 病弱時代の面影(びょうじゃくじだいのおもかげ)   明治27年(1894) 23歳
参考写真 権現(ごんげん)   平成17年(2005) 田原市田原町
写真 名和昆虫講習会にて(なわこんちゅうこうしゅうかいにて)   明治33年(1900) 29歳
写真3 渡米前の面影(とべいまえのおもかげ)   明治34年(1901) 30歳
写真4 サンフランシスコから   明治36年(1903) 32歳
写真5 苦悩時代(くのうじだい)   帰国後(きこくご)  
  静坐の開始      
写真6 静坐創始時代(せいざそうしじだい)      
写真 新婚当時の夫妻(しんこんとうじのふさい)   明治38年(1905) 34歳
写真7 静坐確立時代(せいざかくりつじだい)   明治42年(1909) 38歳
写真8 静坐確立時代(せいざかくりつじだい)   明治42年(1909) 38歳
写真9 地方指導時代(ちほうしどうじだい)   明治44年(1911) 40歳
写真10 隆盛時代(りゅうせいじだい)   大正3年(1914) 43歳
写真11 隆盛時代(りゅうせいじだい)   大正4年(1915) 44歳
写真12 鳥取市橋本氏宅にて(とっとりしはしもとしたく)   大正5年(1916) 45歳
写真13 隆盛時代(りゅうせいじだい)   大正5年(1916) 45歳
写真14 虎二郎先生一家(とらじろうせんせいいっか)   大正5年(1916) 45歳
写真15 長女 礼子(ちょうじょ れいこ)   大正5年(1916) 10歳
写真16 虎二郎先生一家(とらじろうせんせいいっか)と兄 藤十郎氏(あに とうじゅうろうし)弟 嘉三郎氏(おとうと かさぶろうし)   大正5年(1916) 45歳
写真17 京都市中井氏別荘にて(きょうとしなかいしべっそう)   大正8年(1919) 48歳
写真18

フロックコートの虎二郎先生(とらじろうせんせい)

  大正8年(1919) 48歳
90 岡田式静坐法 実業之日本社 (じつぎょうのにほんしゃ) 大正3年(1914)  
参考写真 本行寺(ほんぎょうじ)   平成17年(2005) 東京都日暮里(とうきょうとにっぽり)
69 静坐童子写真(せいざどうじしゃしん)      
9 静坐童子(せいざどうじ)   昭和51年(1976)復刻 原模型大正年間制作
8

岡田虎二郎先生の研究

森田繁治
(もりたしげはる)
  本行寺静坐会使用
写真19 遺骨を囲む(豊橋岡田屋)   大正9年(1920)  
写真20 蔵王山の葬場(ざおうさんそうじょう)   大正9年(1920)  
参考写真 蔵王墓地(ざおうぼち)   平成17年(2005) 田原市田原町
参考写真 岡田虎二郎先生墓所(おかだとらじろうせんせいぼしょ)   平成17年(2005) 田原市田原町
参考写真 静坐記念碑(せいざきねんひ)
行先を忘れて登る不死の山(ゆくさきをわすれてのぼるふしのやま)
  平成17年(2005) 田原市田原町
参考写真 岡田家墓所(おかだぼしょ)
(中央=父 岡田宣方)(左=兄 岡田藤十郎)
  平成17年(2005) 田原市田原町
参考写真 弟 井上嘉三郎氏墓所   平成17年(2005) 田原市田原町
75 静神養氣(せいしんようき) 岡田虎二郎    
1 「静楽」書(せいらくしょ) 岡田虎二郎   絹本墨書
16 岡田先生十年祭(おかだせんせいじゅうねんさい) 
祝辞(しゅくじ)
田原町長
本多武二
(ほんだたけじ)

田原区長
太田金 太郎
(おおたたろう)

門人
橋本五作
(はしもとごさく)
昭和5年(1930)  
3 岡田虎二郎
肖像写真(しょうぞうしゃしん)
    田原町にて撮影田原町静坐会頒布
57 基本計算練習盤(きほんけいさんれんしゅうばん)
主意書(しゅいしょ)
岡田藤十郎    
22 岡田虎二郎先生より令弟井上嘉三郎氏宛書簡集 田原静坐会 昭和47年(1972)  
118 岡田虎二郎より
井上嘉三郎宛書簡
岡田虎二郎    
  虎二郎没後の顕彰      
4 岡田先生紀念御写真帖(おかだせんせいきねんおしゃしんちょう) 木下尚江出版 大正10年(1921)  
2 短冊「浪の音」(なみおと) 木下尚江 大正11年(1922)  
2 短冊「我常浄楽」(われつねにじょうらく) 木下尚江 昭和3年(1928)  
11 木下尚江著作集(きのしたなおえちょさくしゅう)   昭和44年(1969) 第12巻
18 岡田虎二郎先生写真帖(おかだとらじろうせんせいしゃしんちょう) 田原静坐会同人 昭和44年(1969)  
24 普賢経偈(ふげんきょうけい) 笠原文雄 昭和45年(1970) 50年祭
仙台静坐会会長
40 静楽(せいらく) 京都静坐社 昭和50年(1975)  
129 岡田虎二郎 肖像写真      
127 河合久八家 家訓(かわいきゅうはちけ かくん) 小澤耕一
(おざわこういち)
昭和40年(1965)  
128 岡田虎二郎先生 御句 小澤耕一    
行先を忘れて登る不死の山      田原城三ノ丸静坐記念塔  十年祭刻
来て見れば聞しにまさる不死のやま  蔵王山御墓所記念碑   七十年祭刻

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。
 
岡田虎二郎年譜
西暦(年)
年齢
事項
1872(明治5年) 1 田原町山口に田原藩士岡田宣方の次男として生まれる。
1877(明治11年) 6 田原学校(現田原中部小学校)に入学
1883(明治16年) 12 初等科全科を卒業、幼児期虚弱。
1886(明治19年) 15 高等小学校(現在の霊巌寺内)を卒業、学術優等賞を受ける。この年、諸国の偉人傑士を訪問。
1887(明治20年) 16 天竜寺の橋本峨山和尚に仏教思想と座禅を研究、以後全国遍歴。
郡内に「勧農協会」設立され、報徳精神を研究。
1888(明治21年) 17 全国古社寺を巡拝、仏相、姿勢を観察、北設報徳会の名士を訪問。
1890(明治23年) 19 足尾銅山の志士田中正造、山本長五郎の体験を聞く。
1891(明治24年) 20 板倉家の田畑四反歩を受領。
1892(明治25年) 21 徴兵検査で丙種合格(免除)、稲作に熱中、虫冥虫の駆除法を研究。
1893(明治26年) 22 全国の昆虫研究者、篤農家を訪問。
1894(明治27年) 23 虫冥 虫卵駆除を発見。長岡宗好の肥料の三要素説と論争。
1895(明治28年) 24 渥美青年農会を発足、会長に就任。
1896(明治29年) 25 名和靖を田原に招聘。「第一回渥美郡昆虫講和会を開催。大日本農会品評会入賞。
論文「最少養分律について」
1897(明治30年) 26 名和靖「岡田式虫冥虫採卵法」を大日本農会誌に発表。昆虫講話会を開催。
心身の開発を唱え、冷水欲を宣伝。
1898(明治31年) 27 名和靖と各地で虫冥虫調査。農業主事に就任。昆虫講話会を開催。
1899(明治32年) 28 第一回渥美郡教職員昆虫講習会で教員を名和昆虫研究所に引率。小食の実験、乾布摩擦と冷水浴を奨励。
1901(明治34年) 30 「全国昆虫展覧会で功労賞」を受賞。県議、知事と論争、農業主事を辞職、金原明善の援助で渡米。
1905(明治38年) 34 欧州歴訪後帰国。山本き賀女と結婚して山本家に入籍。
1906(明治39年) 35 長女礼子誕生、養家を出て、山梨の内藤文治良宅に寄宿。山中で静坐。上京して兄藤十郎宅に寄宿。
1907(明治40年) 36 静坐にて難病の患者を治癒。黙して静坐、指導を乞う者あり。
木下尚江を筆頭に静坐の指導を乞うもの続々と増える。
1910(明治43年) 39 田原静坐会発足、東京では数十か所で有名人数百人が参坐。
1915(大正4年) 44 田原静坐会の指導者は伊奈校長とし、毎月三回技芸教室で実施。
1916(大正5年) 45 鳥取、岐阜、大垣、半田、豊橋、静岡、長野、甲府で指導。
1920(大正9年) 49 大正八、九年は静坐の全盛期。連日十数か所を巡回、睡眠三、四時間。
十月十七日尿毒症により死亡。十八日田原町蔵王山墓所に埋葬。
年譜参考文献
田原町史下巻
 岡田虎二郎先生略歴 小澤耕一
三河人物散歩 愛知教育文化振興会創立四十周年記念誌 平成9年発行
 静坐道の先達 岡田虎二郎 瓜生堅吉
 
作品の見どころ・解説
2 木下尚江氏筆短冊
春堂師うまれ/たまひし朝のこと/ども空に思ひて/大正十一年六月十三日夜
浪の音山松風にまもられて/あかつき空の君がうふ声 尚江


木下尚江(1869〜1937) 信州松本に生まれるs。天皇制批判や反戦運動を行ったキリスト教社会主義者で、小説家。1888年東京専門学校卒業後、『信陽日報』の記者となるが、失脚し、失意の日々を過ごすが、妹の勧めで、1893年にキリスト教徒となる。1899年毎日新聞に入社し、足尾鉱毒事件で田中正造を支援し、言論活動を行う。1901年社会民主党の創立に参加し、1904年『毎日新聞』に反戦小説『火の柱』を発表した。しかし、1906年母の死を機に社会主義運動から身を引き、1910年に岡田虎二郎と出会う。後に岡田に心酔し、静坐に傾倒した尚江は虎二郎没後、後継者となる。
『実業之日本』明治44年1月
 静ナル哉新年。天モ地モ、日モ雲モ、吹ク風モ流ルゝ水モ、静ナル哉新年。雲井ノ宮モ賎ガ伏屋モ、都モ鄙モ、隣ノ家モ吾ガ家モ、静ナル哉新年。形モ静、神モ静、静ノ又静、静ノ極ナル哉新年。
 然レドモ記セヨ。此静ハ死ノ静ニアラズ。活ノ静也。年頭ノ大静寂ハ、軈テ是雲飛ビ風舞ヒ、体施リ神震フノ大活動を封ズルモノタルヲ知ラズヤ。
 新年ニ於テ何ヲ為サンカト、思ヒ労ヲ勿レ。唯、年頭静坐。爾ノ気ヲ九天ノ上ニマデ張リ上ゲ、爾ノ神ヲ九地ノ下ニマデ落チ付ケヨ。出陣ノ用意、此中ニ成ラン。
明治44年12月弟への書簡の一部
 静坐は主呼吸は従、呼吸は静坐を完全ならしむるの方便に過ぎず候得ば静坐の主たるは勿論に御座候得共、静坐呼吸とも心身開発の形式方便にして、其主眼とすべきは信の一字に有之候間、適当なる指導者を得ずして単に形式にのみに拘泥するは実に無益にして至愚の極と存候。畢竟信なきの行は徒らに身心を疲労せしむるのみに有之候間寧ろ大害ありて寸効をも収むる能わざる事と愚考仕候。

参考写真 本行寺(日暮里)
 明治44年以降、岡田式静坐法の本拠地であった。日暮里駅西口を出て御殿坂を登った右側にあり、徒歩1分ほどである。通りをはさんだ向かい側は谷中霊園がある。本行寺は日蓮宗の寺院で、大永6年(1526)、太田道灌の孫、太田資高の開基で、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)に現在地に移転した。観月の名所で、通称「月見寺」と言われ、儒学者市河寛斎・書家米庵父子の墓ある。
本行寺静坐会の状況
 毎朝五時半開会で、その時刻には、本堂は参会者でいっぱいになった。大学生が多かったが、学者・労働者・官吏・商人・会社員・主婦・老人・子供など、あらゆる人たちが集ってきた。世間に名前の聞えた貴族や富豪もまじっていた。正面の台の上に、恰幅のいい堂々たる体躯の虎二郎が双手を組んだまま端座している。正坐して自分を仰いでいる一同をじっと見渡して、「眼をつぶって」静かに宣言する。「胸を張ってはいけない。胸はすぼめて腹を張る」つづいて注意する。鼻から静かに息をはいて下腹に全身の力をこめる。腰を落さないのは腹に力を入れるためだ。……十分近くもそうしているうちに、自然にからだがゆれてくる。前後にゆれるものがあり、左右にゆれるものがある。わけても婦人の中には倒れるばかりにはげしくゆすれるのもいる。ぴょんぴょん跳びはねるものもいた。しかしさながら独楽のようで、倒れることはない。三十分くらいは忽ち過ぎる。一時間坐っていても長いとは思わない。「眼を開いて」虎二郎の声で、たいていは一時間以内で閉会になるのが例であった。……日をかさねるうち、いつのまにか、腰や肩の凝りを忘れ、逆上(のぼせ)がやみ、胃の痛みが消え、痔がなおり、根気が強くなった。学生など一日四時間も眠れば充分で、疲れというものを忘れてしまうのだった。(臼井吉見著『安曇野』第三部より)

『岡田式静坐法』(明治45年刊行)から
静坐の姿勢の極め方
足の甲を重ねて端座(正座)する。
膝は接触させず、少し開いて坐る。少し開くのは体の重心が自然に臍下に安定するからである。
尻を突き出し、下腹は落ちつけ、鳩尾を落として坐る。
両手は軽く握り合わせて膝の上に置く。握り方は一方の手でもう一方の手の四本の指を軽く握り、親指と親指を交差させる形にする。
顔はまっすぐにして正面を向き、口は必ず噤む。

春堂文庫創設趣意書
 岡田虎二郎先生ご逝去以来55年を経た今日、その直弟子の方々にも他界されるむきもあり先生の遺品資料の散逸も考えられます。先生ご生涯の足跡にかかわる遺品資料を、ご生地の三河田原に収集保存してその煙滅を防ぎたいと思います。これを後代に伝承するとともに希望者の研修活用に備えたいと思います。将来、保存目録を作製し、またなしうれば、この目録を全国静坐道友に頒布したいと存じます。  
 以上の趣意により、上記のような文庫を創設します。
1 名称:春堂文庫 ―岡田虎二郎先生関係資料―
2 場所:愛知県田原市
3 収集保存予定資料:写真・実践記録・書簡・遺墨・出版刊行物・研究資料・聞き書き・録音テープ(直弟子後進の方々の実践談)
4 できうる場合には、遺品の現物・複製品(写真・コピーなど)をご所蔵者より寄贈または複製許可を願う

本文庫の創設につきまして、ご理解とご協力を賜り、今後ますます充実活用されますようお願い申し上げます。(昭和51年1月)

虎二郎の家系

家系図


次回予告
春の企画展渡辺崋山と周辺作家−田原市博物館館蔵名品選
平成17年4月27日(水)〜5月15日(月)
※休館日 毎月曜日、4月26日(火)は展示替のため臨時休館

赤羽根文化会館(田原市赤羽根町赤土1番地)にて「鈴木敏雄コレクション−陶磁器」(中国・朝鮮・日本陶磁器)を展示しています。ご覧ください。
 
田原市博物館/〒441-3421 愛知県田原市田原町巴江11-1 TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp