描かれた女性と子ども

開催日 平成31年2月9日(土)〜3月24日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は江戸時代後期を代表する肖像画家として知られている。描く対象は成人男性がほとんどであるが、市井の風俗を描いた代表作「一掃百態図」では女性や子供も描かれる。ひな祭りに合わせて女性と子どもが描かれた作品を展示する。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  俳画冊 渡辺崋山 天保年間 2冊
  唐子遊戯模写 渡辺崋山 江戸時代後期  
  童児遊亀図(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  牧童之図(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  過眼縮図 椿二山 明治28年(1895)〜大正年間  
重文 一掃百態図 渡辺崋山 文政元年(1818)  
  一掃百態図 渡辺小華 明治12年(1879) 版本
  一掃百態図 渡辺小華 明治17年(1884) 版本
  陳居中官女媚秀図 渡辺崋山 文政年間  
  曳牛(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  祖母像(顕妣教了君肖像) 椿椿山 江戸時代後期 個人蔵
  おあんおきく物語 喜多武清 絵
渡辺崋山 絵
天保8年(1837) 版本 巻菱湖題字、作者不詳
  楊貴妃之図 谷文晁 寛政年間  
  西王母図 谷文晁 文化9年(1812)  
  母児相摩之図 渡辺崋山 文政12年(1829)  
重文 芸妓図(複) 渡辺崋山 天保9年(1838) 原本は静嘉堂文庫美術館蔵
  淮陰侯請食漂母図 渡辺崋山 文政年間  
  卓文君図 渡辺崋山 天保5年(1834)  
  唐美人之図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  渡辺五郎像画稿(複) 渡辺崋山    
市文 母堂栄画像稿 渡辺崋山 天保年間  
市文 母堂栄座像画稿 渡辺崋山 天保年間  
市文 御母堂栄之像画稿 渡辺崋山 天保年間  
  殿中迎春之図 渡辺崋山 天保年間  
  高砂浦之図 福田半香 江戸時代後期  
市文 崋山先生令室たか之像画稿 椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか像稿 椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか坐像画稿 椿椿山 嘉永年間  
  唐美人図 桜間青_ 江戸時代後期  
  美人図 野口幽谷 明治時代前期  
  西王母図 渡辺如山 江戸時代後期  
  観音蓮華座図 山本_谷 明治時代前期  
  崋山筆亀台金母図写 斎藤香玉 江戸時代後期  
  美人之図 椿二山 明治時代  
  老婆童子之図 岸浪柳溪 明治23年(1890)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)

椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展覧会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

桜間青p 天明6年(1786)〜嘉永4年(1851)

三河国岡崎藩主本多忠顕(1776〜1838)の家臣桜間出右衛門能保の次男として江戸本郷の本多家下屋敷に生まれる。天保5年(1834)桜間の支家である藤兵衛を継いだ。画を片桐桐隠(1759〜1819)に学び、椿椿山(1801〜54)とも交遊した。酒席でのエピソードもありますが、生来の天真爛漫な性格から人に憎まれることはなく、崋山は「山水は青pに及ばない」と言わせたほど山水画を得意とした。

野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)

江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。

渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)

上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。

岸浪柳溪 安政2年(1855)〜昭和10年(1935)

江戸に生まれ、名は静司。足利藩士で、明治期に画家として活躍した田崎草雲(1815〜1898)に師事し、日本美術院協会会員、日本南宗画会会員。子に小室翠雲(1874〜1945)に学んだ岸浪百草居(1889〜1952)がいる。作品に富士群鶴飛翔図屏風(石川県立美術館蔵)など。

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作品解説

渡辺崋山 俳画冊

全24四図で2帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771〜1844)の題字「最楽」が添えられている。戦前にこの作品の由来を記した資料が付属し、画帖から一時屏風に仕立てられ、また現在の画帖に改められたと記される。
留守とおもへばくさめする五月あめ
削掛重荷おろせしひとたばこ

椿二山 過眼縮図

二山は椿山の孫にあたり、崋山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。この『過眼縮図』は4冊からなり、第一冊目の表紙には「椿愛古」と書き付けがあり、椿家の家系で、「愛」が付く名の人は椿山の四子で、諱を「愛」と称した和吉とも考えられる。内容は12枚の縮図である。第二冊は一丁目に「過眼縮図」と書き、その左に「椿隆」と書かれ、二丁目に「明治廿八年 縮図 椿隆」とある。内容は師幽谷、小華、崋山、椿山の縮図があり、44丁からなり、中には自分か使用している印が捺されている。第三冊はタイトルは無く、幽谷画塾の風景と思われるスケッチが続く。「野口幽谷先生」の図や「椿隆君」、後に松林桂月の妻となる雪貞女史()、天野仙霞、山高紫山などが描かれる。「椿隆君」と書いているので、二山以外の他の塾生が描いている可能性もある。23丁からなり、幽谷の絵の指導風景なども記録されている。第四冊は前冊に続き、幽谷画塾の人々(桂月、益頭峻南、大田南岳、樋口翠雨など)と日々の風景が記録される。最後近くには病床の幽谷や診療風景も描かれ、明治期の東京における絵画塾を知るための資料としても貴重である。

渡辺崋山 一掃百態図

最初の総論の末尾に「文政新元青龍宿戊寅仲冬望前二日 江戸華山渡邉登識」とあり、文政元年11月13日に完成したことがわかる。32丁からなり、構成は、総論、鎌倉時代の13世紀から寛延(1748〜)から明和(1772〜)までの風俗図、序文、当時の江戸市井の風俗図、跋文である。生活空間としての動きのある場面が続く。風俗図には、歯を抜く図や金魚売図、寄席の図、剣道・砲術・槍術、寺子屋図、遊廓図、大名行列図、物売・行商図、書画会図、婦女図、荷車・農夫図、米俵(力比べ)図、火消し図、飲酒図、風呂屋の図と続く。朱の訂正や未着色の部分もあり、版本として刊行されることを意図したものと考えられる。当時流行していた浮世絵ではなく、動きのある人物を描き、崋山若き日の観察眼が知られる。昭和8年(1933)の鏑木華国による箱書がある。昭和13年9月には重要美術品に認定されている。明治の版として崋山の息子小華が模写したものを版に起こしたものがある。

渡辺崋山 陳居中官女媚秀図

落款に「陳居中画」とある。陳居中は、南宋の画家で字号は郷貫。寧宗の嘉泰年間(1201〜)に画院の待詔を務めた。人物、馬の画に巧みで、柳は鉤葉の法を用いた。『圖繪寳鑑』には、「その布景著色は黄宗道(宣和の待詔)に亜ぐべし」とある。作品は繊細な筆法で官女たちを描いている。しかし、朱の色は後の時代に着色された可能性もある。

椿椿山 祖母像(顕妣教了君肖像)

付属する伝来を記したメモによれば、椿山の妻の母、清水氏老祖母とある。文政四年の稿とある。

喜多武清・渡辺崋山絵 おあんおきく物語

おきく物語はおあん物語の姉妹編として別に板行されたが、後に合装された。大坂落城の事実を記録したもので、おきく物語は崋山、おあん物語は崋山と交流した喜多武清(1776〜1856)の挿絵である。天保8年版と弘化2年(1845)版が知られる。

谷文晁 西王母図

西王母は中国で古くから信仰されていた仙女で、この図は、周の穆王(ぼくおう)が西に巡狩して崑崙(こんろん)に遊び、出会った西王母を描く。画面右下に「文化九年四月畫 文晁」とあり、「画学齋文晁印」を捺す。
本図では、西王母が手に経巻を開き、翳をかざす侍女と霊芝を手に捧げる侍女が描かれる。西王母の頭上には仙桃と授帯鳥が描かれ、神鹿が伴っている。崋山もこの作品の前年にあたる、19歳の時に『亀台金母図』(個人蔵)という西王母を描いた作品があり、明清画を摸写したものである。この作品は、原図があるかもしれないが、精緻で細密に描かれ、文晁の力量を遺憾なく発揮している。頭上の冠や着物の模様、装飾品には金泥の彩色も施される豪華なもので、その絢爛豪華なたたずまいは、当時の文晁の勢いを感じさせる。

渡辺崋山 母児相摩之図

文政年間の後半には中国舶載の清潔感のある人物画を多く描いている。文政6年の冬に妻としてたかを娶り、3年前の文政9年に長女可津が生まれている。いとしい我が子を見つめる母の姿は、実際に目にすることのできた妻子の姿であったかもしれない。

渡辺崋山 淮陰侯請食漂母図

漢の高祖の功臣韓信(生年不詳〜前196)は淮陰(現江蘇省)の貧家の出身で、若い頃、流浪の生活をし、漂母(古綿を洗う老婆)に飯をもらった。その後、出世をし故郷に錦を飾り、その時の漂母を召して恩を報いた。その故事を描いた作品である。

渡辺崋山 卓文君図

卓文君は、漢の武帝の時代の富豪卓王孫の娘で、美女として有名であった。文人司馬相如とかけ落ちしたが、のち、相如の心変りを怒って「白頭吟」を作った。細い首としなやかな手の動きが柔らかな筆致で、女性らしさを強調している。崋山には数点の卓文君図が知られるが、女性を描く作例として貴重である。

渡辺崋山 唐美人之図

天保9年崋山46歳江戸における作品。唐姫が蘭花をかざして蝶を誘う場面。繊細なる筆致をもって王朝美人の姿態を品位高雅に描写している。落款は「戊戌夏日寫崋山外史」。

渡辺崋山 御母堂栄之像画稿

崋山の母は、旗本で摂津国(現大阪府)高槻藩主の永井大和守の家臣河村彦左衛門の娘にあたる。22歳で崋山を生んだ。崋山が40歳のときに書いた『退役願書稿』(重要文化財・田原市博物館蔵)によれば、「唯母之手一つにて、老祖・病父・私共、其日を送候事故…」「私母、近来迄夜中寐(寝)候に、蒲団と申もの、夜着と申もの、引かけ候を見及不申、やぶれ畳之上にごろ寐(寝)仕、冬は炬燵にふせり申候。」と書き、非常に苦労していたことがわかる。渡辺家には、この作品の稿と考えられる作品(田原市博物館蔵・田原市指定文化財)があった。画面中央左に「全楽堂文庫」印が捺されている。元は渡辺家にあったものであろう。崋山が田原幽居中に描いたものと考えれば、70歳頃の姿である。

渡辺崋山 芸妓図

図中に「与可之竹 思肖之蘭 華光之梅 皆寫所愛。自撥抒性情 兼以贈人也。然人之好悪不一。王衍/忌泉 欧陽公憎蠅 眉山翁悪棋。雖欲与我同好得哉。予有六如老蓮之癖 佐酒非盻々不楽 同夢/非蓮香不眠 故情所鍾能発揮其所思。夫人生而無飲啄牝牡之欲者非人也。是以予所好者天下公/道 而予可思翁之所愛一人私俶(ママ)(淑) 也。因寫予愛妓 寄顕斎。顕斎与予同好也否。時天下禁者 我妓徹玉/梳金釵 素面軽羅 如雨後〈草冠に函〉萏。是天保戊戌六月朔十日 崋山外史戯画又記」とある。崋山は画中の女性を評して、髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣をまとって、あたかも雨後の蓮を見るようだと讃えている。「〈草冠に函〉萏」とは蓮の花で、「校書図」とも呼ばれる作品で、内箱蓋表に「華山渡邊先生所歡校書圖」とあり、「校書」とは本来、秘書を校する官の名であったが、唐の詩人元稹に文才豊かな芸妓薛濤が侍して校書の任をよく果たしたという故事に基づき、芸妓の異称とされている。崋山の門人平井顕斎(1802〜1856)に贈ったものとして知られる。
 左手を後ろ手に右手に持った団扇を歯で噛むという姿。櫛には朱と金泥、胡粉、顔には女性らしく白い胡粉と淡い朱、着物には淡い藍に紅、藍、黄の暈しで絞り文様を、淡墨と濃墨を重ねた帯には「清風高節」の金文字が書かれる。品川宿の孝行妓お竹を描いたと伝えられ、江戸時代においては珍しいポーズを取らせて描いた女性の肖像画と考えられるものである。崋山の肖像画における「公」の部分を『鷹見泉石像』や『市河米庵像』とすれば、文人の自娯という「私」の部分を表す代表作がこの作品と言えるだろう。

椿椿山(渡辺)崋山先生令室たか像稿

右の図には、上に「第三 筋少ク」、左の図には「第四 耳大キク」「トカル 口ハヘノ字ナリ」「此スシ無」などと記してある。画左に「九月十一日 弼敬寫」とあり、「弼」の朱文円印を捺す。渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、渡辺家に伝来した可能性がある。昭和十年代に撮影された写真の題には「顯妣教了君肖像」と記される。

福田半香 高砂浦之図

兵庫の播磨灘に臨む高砂神社の相生の松の下に老夫婦を描き、天下泰平、長寿祝福を表したおめでたい画である。山水花鳥の得意な半香が人物画を描いた珍しい作品である。

山本琹谷 観音蓮華座図

琹谷は崋山が蛮社の獄で捕えられた翌年の天保11年6月3日に椿山に入門したことが椿山の門人録である『琢華堂門籍』(田原市指定文化財・田原市博物館蔵・公益財団法人崋山会にて複製販売)に記録されている。椿山没後は、崋山を手本とした人物画の多い琹谷であるが、このような細密な描写の人物表現も残している。

斎藤香玉 崋山筆亀台金母図写

渡辺崋山の模写図中には「汪(汪は欠字)右鳳山鄷鳴世薫沐頓首画」とあり、その下に印記を写し描く。
図上の罫線外に「重模亀台金母図 鄷鳴世所画也 款云汪右者江右模訛 鄷音風 文王所都邑名 書作豊又(又は欠字)音芳 蓋鳴世不知何許人 其筆跟張呉来者歟 余再模之以善著色」、「文化辛未秋九月七日、登」とある。読みは「重模亀台金母図、鄷鳴世画く所なり。款に云う、汪右は江右の模訛、鄷の音は風、文王の都する所の邑の名、書は豊に作る、又音は芳、蓋し鳴世は何許の人なるか知らず、其の筆跟張、呉来の者か。余、之を再模し以て著色を善くす」であろう。『列仙伝』に「西王母は即ち亀台金母也」とある。前漢の武帝(前156〜前87)に西王母が仙桃を与えた故事を描いたもので、左の侍女が仙桃を捧げ持つ。原本がそうなっているのであろう西王母の衣服の裾部分のいたみも模写している。崋山が田原藩主に献上した画幅の中に「王鳴世行書臨額」一幅があり(『崋山全集』進書目録第二による)、「鳴世字鳳階、号西荘。履歴諸書に散見。西荘始め存稿日下集十七史商搉尚書後案素竹園詩の著有り」とある。王鳴盛(1720〜1797、江蘇省の人、考証学者・詩人。)と思われる。

野口幽谷 美人図

墨描で、手を隠している着物姿の女性を描く。画面の向かって左に「幽谷」の朱文長方印を捺す。

椿二山 美人之図

野口幽谷(1827〜1898)塾で同門の女性画家、松林雪貞(1878〜1969)であろうか。雪貞は白河藩士の娘で、名を孝子と言う。はじめ滝和亭の弟子、佐久間棲谷という女流画家に学んだが、幽谷の塾に明治29年(1896)に入門、号の雪貞は幽谷に名付けられた。幽谷没後の31年に幽谷の画塾、和楽堂を退塾、三輪田女塾(現学校法人三輪田学園)に入り、国文学・漢文を学んだ。桂月と31年には婚約したが、桂月の結核療養後、34年に結婚。日本美術協会展で29年三等・30年二等褒状を受け、結婚後には一等褒状も受け、41年の文展に入選。当時、女流画家が活躍する時代となりつつあったが、画塾の中でも絵のモデルとなることもあったのであろう。

岸浪柳溪 老婆童子之図

正座する老婆と、本を前に置いている若者を描く。巻止に「小華先生青年之図」とあり、渡辺崋山の母栄(1772〜1844)と崋山の二男、諧こと号小華(1835〜1887)の図と伝えられる。柳溪は田崎草雲の弟子で、落款に「明治庚寅夏五月謹写柳溪」とあり、柳溪36歳の作である。

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