特別展 渡辺崋山名品展

開催日 平成25年10月19日(土)〜11月24日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  寓画堂随筆 渡辺崋山 文化年間 館蔵名品選第2集1
  脱壁 渡辺崋山 文政8年(1825) 館蔵名品選第1集10
  寓目縮写 渡辺崋山 文政9年(1826) 館蔵名品選第1集11
市文 花卉鳥虫蔬果画冊 渡辺崋山 天保4年(1833) 館蔵名品選第1集20
  梅果図扇面 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第2集25
  崋山所用便面 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集38
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保9年(1838) 館蔵名品選第1集35
  和蘭陀風説書 渡辺崋山 天保9年(1838)  
市文 福禄寿 渡辺崋山
渡辺小華
文化年間
明治時代
館蔵名品選第1集1
重文 渡辺巴洲像画稿 渡辺崋山 文政7年(1824) 館蔵名品選第1集8
重文 渡辺巴洲像画稿 五図 渡辺崋山 文政7年(1824) 館蔵名品選第1集9
  樹陰避雨図 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第2集4
  母児相摩之図 渡辺崋山 文政12年(1829) 館蔵名品選第1集13
  漢高祖見_食其図 渡辺崋山 天保2年(1831) 館蔵名品選第1集18
  三亀之図(画道名巻) 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集17
  猛虎図 渡辺崋山 江戸時代後期  
市文 月下芦雁之図 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第1集23
市文 高士観瀑図 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第2集24
国宝 鷹見泉石像(複) 渡辺崋山 天保年間 原本東京国立博物館蔵
市文 千山万水図稿 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集32
市文 商山四皓 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集21
  林大学頭述斎肖像稿本 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集33
  竹中元真像 渡辺崋山 天保年間 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

作品紹介

渡辺崋山 梅花図扇面 天保8年(1837)

落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みすみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。

渡辺崋山 崋山所用便面 天保年間

付属する箱の表書によれば、「崋山翁所用便面」とあり、崋山が使用したものと伝えられる。赤の墨流しを背景に扇面の表裏両面に絵が描かれている。風景が描かれた面の左端には渥美半島の地名である「亀山堀切中山小塩津日出保美」やカタカナで「イラゴ」との記述が見られる。崋山が渥美半島のこれらの村を通過したのは、天保4年の『参海雑志』の田原から伊勢湾に浮かぶ神島を訪ねたとき以外にはなく、この年の作である可能性が高い。また、もう片方の面にはトンボが飛ぶ姿を描く。崋山は扇面に虫を描く機会も多く見受けられる。

渡辺崋山 福禄寿 文化年間・明治時代

崋山が二十歳代前半に描いたと思われる鹿の図を中心に、渡辺家の家督を継いだ次男で、画家としても一家を築いた小華が右幅に蝙蝠、左幅に霊芝を配し、吉祥画題の「福禄寿」となしたものである。鹿はその音が「禄」(財産)に、蝙蝠は「蝠」(幸福)に、霊芝は「寿」(寿命)に通じるものであった。江戸時代においては、狩野派からも文人画家からも非常に好まれた画題である。17歳から関東文人画界の大御所である谷文晁の画塾写山楼に通い、徳川吉宗の時代、享保年間(1716〜1736)に長崎に中国から来舶した沈南蘋を模して写実的な画風の鹿も多く描いた崋山であるが、二十歳代の日記や崋山自身の伝記とも言える『退役願書稿』を見ると、若い頃は「彩燈画を描く」との表現が多く見られ、画技習熟と生計のために初午燈籠の作画を熱心にしている。
 この作品の鹿の眼差しは若き日の崋山が慈しんだ弟妹を見つめるようにやさしい。現在では見ることのできない彩燈画も、このようにぬくもりのある絵であったことだろう。

渡辺崋山 樹陰避雨図 文政年間

一樹の陰に皆集まっている。士、農、工、商、男女、主従。雨を避けて偶然出会った人々。しかし、同じ心境の今、話も弾むであろう。その様子を崋山は生き生きと描いている。文政元年(1818)に描かれた『一掃百態図』(重要文化財、田原市博物館蔵)と同じ頃に描かれていると思われる。活気に満ちた風俗画を得意とする崋山の作品である。

渡辺崋山 高士観瀑図 天保8年(1837)

天保8年5月、崋山45歳の作。青山を遠くに、枯木が天を突く。その岩山を回流する溪水は大瀑布となり高士の耳目を驚かす。近景では、群流となり流れ落ちる。左上に賛詩を附す。「豁開青冥巓、瀉出萬丈泉、如裁一條素、白日懸秋天 丁酉蕤賓月寫於全楽堂南楼 崋山登」。廣大なる青空の嶺より、そそぎ出る万丈の泉水は、一条の白絹を切り断つ如く、陽光輝く秋の空にかかる。

渡辺崋山 千山万水図稿 天保年間

崋山作品の中で、故事や中国的な想像力をもって構築された風景画を除いての数少ない山水図が重要文化財に指定された「千山万水図」(個人蔵)である。一見、「千山万水図」と同構図のように感じられるが、遠景に霞む山並が省略されていたり、中景に入り込む入江部分が水面に見えない。また、重要文化財に比べ、さらに高い視点で描かれているように感じられたり、山に打たれた米点も強いなどの特徴から考えると、本図完成前の下図と考えられる。「千山萬水図 丁酉六月朔五日、迎快風寫之 子安」の落款も同一であるが、印は「模古」ではなく、朱文瓢形印の「登」と白文方形印の「崋山樵者」が捺されているが、後捺印と考えられる。

渡辺崋山 商山四皓 天保年間

付属の箱書によれば、元は掛川城居間の小襖絵であったと伝えられるものである。「商山四皓」とは、秦の時代に乱世を避け、陝西省の商山に隠れ住んだ東園公、りく里先生、綺里季、夏黄公の四老人のことである。漢の高祖が太子を廃位しようとしたとき、張良の招きにより太子を補佐したため、高祖は廃位をあきらめた。ひげも眉もみな白かったので、四皓という。崋山が仕えた田原藩では文政10年(1827)10月に本来の血統である友信を廃し、姫路から養子を迎えた。この画題には、藩主の養子受け入れに反対した崋山の思いが感じられる。元になる作品の存在も感じられるが、その人物表現には見る者に既に非凡さの片鱗を感じさせる。

渡辺崋山 林大学頭述斎肖像稿本 天保年間

林述斎(1768〜1841)は名を衡(たいら)といい、美濃国岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の子で、和漢の典籍に通じ、寛政5年(1793)に26歳で幕府の命によって林家を継いだ。林家の私塾であった湯島の聖堂を幕府の学問所「昌平黌」とした。松崎慊堂・佐藤一斎を擁し、学徒の養成に努め、林家の中興と称された。この肖像では鬢に白髪が混じり、林家の紋をつけ、ふくよかなその姿は六十歳代と思われる。述斎の肖像画は伝谷文晁をはじめ数点が知られている。崋山は文政年間に松崎慊堂(関東大震災で焼失)・佐藤一斎の肖像画を描いている。この林述斎肖像稿も依頼画の下書きと考えられるものであるが、天保10年5月に蛮社の獄で崋山が捕えられた際、『慊堂日暦』同年5月28日の条によれば、「林門ハ崋山ノ籍ヲケズルコトヲ命ズ」とあり、完成画も廃棄されたのかもしれない。光があたる顔の正面には明るい肌色を使用し、顔の側面と首にやや濃い色を塗ることにより、立体感を描き出す。崋山が西洋画から取り入れた陰影技法が駆使されている。正面を見据えたその眼差しは、大名家出身の学者であり、そのゆるぎない自信と剛直な性格を充分に表現している。この作品は、慶応義塾学長も務めた小泉信三(1888〜1966)の旧蔵で、箱書は帝展委員の田中頼璋(1868〜1940)が大正2年(1913)に書いている。昭和25年(1950)東京国立博物館の南画名作展に松林桂月の推選により出品されたとされるが、残念ながら目録には掲載されていない。一時タイ国に持ち出されたが、幸いに日本へ持ち帰られた。

渡辺崋山 花卉鳥虫蔬果画冊 天保4年(1833)

最終頁の落款に「癸巳人日小酌之餘寫 崋山外史」とあり、天保4年の正月7日に飲酒した後に描いたものであることがわかる。草花・虫・鳥・果実の12図を描く。輪郭線(骨法)を描かずに濃い彩色で対象物を埋め尽くすように描き表した没骨技法で描かれている。原本となる作品の存在も感じさせるが、部分的には生活の日々で目にした写生を使用していると感じられる。小さな画面であるが、崋山が修得した技術を楽しむことができる。

渡辺崋山 田原御三人様宛書簡(和蘭風説書) 天保9年(1838)

資料名である御三人様とは、田原藩を対象とした檄文であることから崋山が信頼していた藩士に宛てた書簡と考えられる。また、藩主へも極秘に申し上げよとあるから上級武士である。家老の佐藤半助・給人の松岡次郎、用人の真木定前と思われる。「西ノ方銀の橋」「西ノ棟上の餅ヲ焼テ」と書かれ、江戸城西丸焼失の後と考えられることから天保9年10月頃である。

六月和蘭陀風説書
上り、追届左之通、文言ハ/未審。
一、いきりす国ニ於て、日本/ 漂流人東海上ニ於而相/救候ニ付、長崎表へ本/国使節ヲ以相送/侯旨、此節評議/有之よし、右船ハ啇(商)/船ニて人数何不と有之、/依之御用心可被遊侯。 右之通申上り侯。右イキリス/国之義、日本交易ヲ乞ヒ侯/事ハ必定ニ御座候得共、日本ニて/交易ヲ御断ニ相成候事も/必定之段ハ、彼国ニ於而も/兼々承知ニ御座候。然ルニ/物入ヲかけ参り候事、一通ニてハ/相済不申、ロシヤ一件も委細ニ/心得参リ候事、其上此方ニ/て御断ニ相成候時ハ、其段ハ承/知致、扨又貴国ニ於而我/商船漂流之時、サツマ宝/嶌之一件其外海外ニて/兵器ヲ備、我船の難義ヲ/救ひ不被申、同く天ヲ載キ/ 同敷地ヲ踏、同シ人間にて/一国の故ヲ以天下の害ヲ/被成候節、天下の為ニ無拠/兵器ヲ相用可申、此御答/承リ申度と申候時、如何/御答有之哉、甚大変ニ/及可申候。/ 一、当時朝庭(廷)ニてハ一向ニ物ノ/数とも被致不申、ますます西ノ方/銀の橋なと出来、又此間/狐ヲ殺シ候もの有之、其もの/楓山の鎮火狐ヲ殺候故ヲ/以窂舎也。其夜狐ヲ/中山へ十七人の人数ニ御送/事一向ニ耳ニも入不申候。古/風説もひしかくしにて/御座候。
一、中ニ一役人申候。かくの如き/事あらハ、和蘭取拵ひ被/仰付候様良策ヲ奉リたリ/右イキリスニ生シ候時ハ、/急ハリユス国ニ有之候。/右之通の世の中故、田原/ハ武ヲ搆シ徳ヲ敷キ、天/地の間ニ獨立致、掌大の/地ヲ百世ニ存候様、御工夫/第一也。何テモ徳ニ無之テハ/危シ。
一、岡崎矦持出シ十万石/の願ヒアリ津軽徳山ノ例然ルニ極貧/にて勤リ不申処柳原の隠/居御スイキウものニテ、井伊・本多/・酒井・榊原四天王の家なれハいカに/も気毒也。左様候ハゝ一万俵ツゝ/年々助力可致、依之讃岐ニて/弐万俵、井伊にて一万俵と内々/相談きまり申、依之岡崎矦/権門必死也。岡崎も岡崎、右/三家も三家、とても永続の/はなしニハ無之、かくの如き/大馬鹿大名はかり有之、/さてさてこまり入候もの也。家/来も家来也。 右之通ニ風説申上候。/上へも御心得のため、早々極/秘ニ被仰上春山へも御話/可被下候。則此書附にて宣/敷御座候。六日

田原/御三人様 登

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