平常展 渡辺崋山と小華

開催日 平成24年11月17日(土)〜12月24日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

崋山とその子、小華の作品を展示します。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  墨蘭図 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集36
  丁亥画稿縮図 渡辺崋山 文政10年(1827) 館蔵名品選第2集3
  覊旅漫録 曲亭馬琴著渡辺小華画 明治20年(1887)  
  花鳥画十二図 渡辺小華 明治5年(1872)  
  夏山欲雨図 渡辺崋山 文政3年(1820) 館蔵名品選第1集4
  白衣大士并写経 渡辺崋山 文政5年(1822)  
市文 秋山瀑布図 渡辺崋山 文政5年(1822)  
  香祖図 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
  甘草蟷螂之図 渡辺崋山 天保年間  
  竹枝小禽図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  黄雀覗蜘蛛図 渡辺小華 江戸時代後期 館蔵名品選第1集103
  観音図 渡辺小華 明治時代前期 個人蔵
  花鳥図屏風 渡辺小華 明治5年(1872)  
  花篭四友之図 渡辺小華 明治8年(1875)  
  芦雁之図 渡辺小華 明治17年(1884) 個人蔵
  白頭之図 渡辺小華 明治17年(1884) 館蔵名品選第1集102
  牡丹鶏図 渡辺小華 明治時代前期  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

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作品紹介

渡辺崋山 墨蘭図 天保年間

詩に「倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均清夢遠 遺珮満 湘」、落款は「随安敬」とあり、朱文亀甲印の「登」印を捺す。読みは「石に倚って疎花痩せ、風を帯て細葉長し。 霊均の情夢遠く、遺珮 湘につ」となる。霊均は戦国時代の楚の人で、屈原(前343頃〜前277頃)の字である。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが、妬まれて失脚、 水のほとりで蘭を取って身に付け、汨羅に投身した。その高潔な屈原のことを蘭に添えたものである。天保10年(1839)にやはりこの詩を添えた作品「蘭竹双清」がある。

渡辺崋山 丁亥画稿縮図 文政10年(1827)

表紙に「二号 丁亥画稿縮図 全楽堂」と書かれている。21丁からなるが、後半は、後から縮図を描こうと思ったものか、枠のみを描く頁もある。1丁目裏から2丁目表にかけての見開きには「三月廿九日」と書かれている。次の頁の見開きには「文政丁亥嘉平月」とあり、「嘉平月」は12月である。この頁はいずれも見開きでひとつの図を描いているので頁の交錯ではなく、最初から続けて3月と12月という離れた時期に描いている。少し後には2月17日の依頼画の控が記録される。後世整理したものか、または写しの可能性もある。

曲亭馬琴著・渡辺小華等画 覊旅漫録 明治20年(1887)

『馬琴道中記』とも称される明治時代の図書である。享和2年(1802)、夏の京坂旅行についての馬琴の旅行記。旅先の名物や奇談のほか、自身も遭遇しかけた水難の話や、土地の風俗を細かく記していて、その観察力に驚く。川辺御楯と小華が挿絵を提供している。

渡辺崋山 夏山欲雨図 文政3年(1820)

夏の山を墨点で表現した典型的な山水図である。この画題も文人画家から非常に好まれたものである。「米襄陽の筆意に法る、時に総房の快風を迎え、全楽堂に於いて竣ゆ」とある。米襄陽即ち宋代に活躍した米元章(1051〜1107)の筆法に法り、緑の深い瑞々しい夏山を米点をダイナミックに積み重ねることで表現したものである。簡略な筆で静寂な雰囲気を醸し出すことに成功している。若き日の崋山の勢いを見ている者に感じさせる作品である。

渡辺崋山 白衣大士并写経 文政5年(1822)

「文政壬午仲春書於全楽堂一塵不到處 華山邉登併寫」とある。

渡辺崋山 香祖図 天保年間

詩には、今回、展示されている墨蘭図と同じ「倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均清(夢)遠 遺珮満 湘」、落款は「随安道人」とあり、白文長方印の「鷗保」と朱文方印の「渡邉登印」を捺す。詩の読みは「石に倚りて疎花は痩せ、風を帯びて細葉は長し、霊均の清(夢は欠字)は遠く、遺珮は 湘に満つ」。意味は「石によりかかったまばらな蘭の花は痩せている。風に吹かれた細い葉は長く伸びている。屈原が無実の罪をはらすため自殺した清らかな夢は遠い昔のこと、その残された立派な志は 江と湘江の合流点、泪羅の淵に満ちている」。霊均とは、楚の忠臣、屈原のこと、讒言により、遠く流され、潔白を願いて、洞庭湖の泪羅の淵に投身自殺した。香祖は蘭の別称。明治44年(1911)、崋山会・鏑木華国により発行された『渡邊崋山遺墨帖』には「幽谷孤芳図」の題で掲載されている。

渡辺小華 花鳥画十二図 明治5年(1872)

田原市指定文化財である渡辺崋山筆『花鳥帖十二図』(天保2年5月作)の写しである。父、崋山の作品は紙本であるが、小華は絹本に描いている。

渡辺小華 黄雀覗蜘蛛図 江戸時代後期

同画題・モティーフの崋山作品が知られている。竹には蜘蛛が巣をはり、ぶら下がっている。竹枝に止まる雀は羽を開いてバランスをとっているようにも見えるし、蜘蛛を狙うため飛び立とうとしているようにも見える。崋山作品を意識したのは間違いないが、崋山のそれが、緊張感に満ちた画面であるのに対し、小華のそれは軽妙洒脱でユーモラスに満ちた作品となる。小華の諧謔的な解釈によるもので、「小崋外史戯寫」の署名がそれを示す。なお小華の「華」が「崋」になっており、江戸時代に描かれた作品であろう。

渡辺小華 花鳥図屏風 明治5年(1872)

明治初年に使用される印のパターンである。静岡県の旅館に伝わったもので、三河から遠州・駿府にかけての東海道沿いには崋椿系画家の作品の人気が高かった。「小華道人寫時壬申仲夏」の落款と「邉諧」「小崋」印の組み合わせである。「白陽山人・南田翁之意・清人之法」などと記され、中国からの画の影響下にあることが見て取れる。

渡辺小華 花篭四友之図 明治8年(1875)

前年にあたる明治7年8月に、小華は40歳を迎えていた。この年、田原を離れ、豊橋へ居をうつしている。9月に豊橋吉屋町安形こう方へ寄留したと戸籍に書かれている。その後、手間町に寄留し、年末には元大手内深井家旧宅へ転居し、明治9年3月に東京へ出発する間までは豊橋を拠点として生活していた。本格的に東京へ移住する明治16年までは、豊橋と東京を行き来する生活となる。この作品が描かれた時期は、一般的には豊橋居住と考えられ、通称百花園時代と称される。水墨基調の作品が多い時期と言える。箱書により、「四友之図」としているが、描かれているのは、菊・蝋梅、蘭・仏手柑である。

渡辺小華 白頭之図 明治17年(1884)

右下に、「一路栄華到白頭 甲申冬日寫小華逸人邉諧」とある。「白頭」はムクドリの別名である。頭頂部が白く、その姿が白髪の老人に似ることから、長寿の寓意を持つ吉祥画題に多く登場する鳥である。作品中には四羽のムクドリが描かれる。画面右の三羽は滑空し、左の一羽は、転向し上空へと羽ばたこうとしている。絹地に金を散らし、その表現はあたかも水しぶきを思わす。この効果が画面に躍動感を与えるとともに、吉祥画としての高級感を付与するのである。近世後期に一世を風靡した沈南蘋の影響を色濃く残した作品である。


■『渡辺家系譜』より■

【崋山】

第七代 定静 登・始メ源之助又虎之助

寛政五癸丑年(一七九三)九月十六日丑刻過生レ、字ハ伯登又は子安、華山、崋山、随安居士、観海居士、昨非居士等ト号ス
天保三壬辰年(一八三二)五月十二日年寄役末席ニ進ミ百二十石ヲ賜ウ
天保十二辛丑年(一八四一)十月十一日自刄、四十九才、
田原城宝寺ニ葬ル 法号 文忠院崋山伯登居士

【小華】

第九代 諧 舜治ト称セシトキアリ

天保六乙未年(一八三五)正月七日生レ、字ヲ詔卿、小華ト号ス、六才ノ時父幽居ニ従イ田原ニ至ル、兄一学歿後、家督相続、累進シテ家老トナリ、維新後田原藩権大参事トナル、画業を椿椿山ニ学ビ、父崋山ニ次イデ一家ヲナス
明治二十丁亥年(一八八七)十二月二十九日東京浜町宅ニ病歿、五十三才、
田原町城宝寺ニ葬ル、法号 文雄院諧誉小華居士

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