渡辺崋山と弟子たち1−椿椿山と福田半香

開催日 平成22年10月23日(土)〜12月27日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

椿山は花鳥画、半香は山水画の名手として知られています。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  幽居記聞巻 伝渡辺崋山 天保11年(1840) 個人蔵
  元高彦敬米法山水巻 椿椿山 江戸時代後期  
  一覧縮図 椿椿山 文政2・3年(1819・1820) 館蔵名品選第2集56
  琢華堂画稿 椿椿山 天保11年(1840)  
  漫遊画稿 椿椿山 弘化元年(1844)  
  四君子図巻 椿椿山 江戸時代後期  
  宋周元公濂渓先生像 渡辺崋山 文政3年(1820) 個人蔵
  龍虎双幅 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第1集14
市文 翠渓亭路之図 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第2集10
市文 水郷驟雨之図 渡辺崋山 文政9年(1826)  
  母児相摩之図 渡辺崋山 文政12年(1829) 館蔵名品選第1集13
  鍾馗図 渡辺崋山 天保5年(1834) 館蔵名品選第2集20
市文 林和靖養鶴之図 渡辺崋山 天保6年(1835)  
  唐美人之図 渡辺崋山 天保9年(1838) 館蔵名品選第2集26
  秋柳翠鳥図(複) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
市文 芭蕉翁像 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集35
  吉村貞斎像 椿椿山 天保3年(1832)  
  紅葉小禽図 椿椿山 天保年間 館蔵名品選第1集66
市文 福田半香肖像画稿(複) 椿椿山 嘉永4年(1851) 館蔵名品選第1集64
  老女像稿 椿椿山 江戸時代後期  
市文 崋山先生令室たか之像画稿 椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか像稿 椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか坐像画稿 椿椿山 嘉永年間  
  歳寒三友図 椿椿山 嘉永7年(1854)  
  高砂浦之図 福田半香 江戸時代後期 館蔵名品選第2集64
  冬山水図 福田半香 安政5年(1858) 館蔵名品選第1集69
  春江山水図 福田半香 安政5年(1858) 館蔵名品選第2集63
  怒濤之図 福田半香 万延元年(1860) 館蔵名品選第1集70

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作品略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。惲南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救済に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華(1835〜1887)、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1771〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

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作品紹介

伝渡辺崋山 幽居記聞巻 天保11年(1840)

巻頭に「椿氏琢華堂」とあり、椿椿山の蔵書であったことがわかる。田原城下の善九郎という人が吉田(現在の豊橋市)からの帰りに遭遇した龍燈(天狗の火)の話と、日出(ひい)村で捕らえられた長さが六尺あるイカの話、小塩津村に漂着した大蘆の三つの伝聞が記される。

椿椿山 元高彦敬米法山水巻

高彦敬は高克恭のことで、字を彦恭、元の前期を代表する画家、元代以降の米法山水画の典型を作り出した。日本には雪舟が高克恭を模して弟子に与えた山水画が現存している。

椿椿山 一覧縮図 文政2・3年(1819・1820)

表紙に「文政録 二番 一覧縮図 椿山藏二」、裏には「英一蝶 筆一 茶家 画家 名家 過眼録 卯至辰」と墨書で記される。
文政二から三年、つまり椿山19歳から20歳にかかる、現存最古の資料である。その名の示すとおり展覧会に見た作品、什物の縮図及び写生を描きとめた備忘禄である。谷文晁、渡辺崋山をはじめとする関東の文人画家はそれぞれ膨大な数の備忘録を残している。

渡辺崋山 宋周元公濂渓先生像 文政3年(1820)

周元公は宋の営道の人、名は敦頤、字は茂叔、諱は元公。易学の根源である『太極図説』『通書』を著し、宋学の開祖となる。居所の名から濂渓先生、または周子(しゅうし)と称される。ゆったりと温厚な学聖の風貌が謙虚な筆致で表現されている。

渡辺崋山 翠渓亭路之図 文政年間

左上賛詩の五言絶句「翆色晴来迎、長亭路去遥、無人抗煙 、落日払溪橋 崋山渡邉登寫」。
天空に翆峰聳え、山峽の亭楼に初秋の気訪れんとす、渓流に沿ひて登る、亭路を進む二老と従者あり。指差す人物の「あちらへまいろうか」と言う声が聞こえてきそうである。

渡辺崋山 母児相摩之図 文政12年(1829)

文政年間の後半には中国舶載の清潔感のある人物画を多く描いている。文政六年の冬に妻としてたかを娶り、三年前の文政九年に長女可津が生まれている。いとしい我が子を見つめる母の姿は、実際に目にすることのできた妻子の姿であったかもしれない。

渡辺崋山 鍾馗図 天保5年(1834)

疫病神を追い払う神、鍾馗を描く。唐の玄宗皇帝が夢に見て、呉道子に描かせたのに始まり、ひげづらで大きい目をしている。勢いよく筆を走らせて描き上げた作品で、墨の濃淡で人物の安定感、存在感を引き出している。落款は「甲午端午前一日崋山人」。

渡辺崋山 唐美人之図 天保9年(1838)

天保九年崋山四十六歳江戸における作品。唐姫が蘭花をかざして蝶を誘う場面。繊細なる筆致をもって王朝美人の姿態を品位高雅に描写している。落款は「戊戌夏日寫崋山外史」。

椿椿山 吉村貞斎像 天保3年(1832)

題賛に「謂不肖吾ニ是親 鏡中真影匪他人 肖哉真也毫端妙 永世相傳舎精神 天保癸巳春貞斎吉村球題肖像之圖賦且書」とあり、別紙に「戒眷屬云 はらたゝずわがまゝいはず むつましく たがひにふしやう するが世の中 辭世云 身の後のことを おもへばかぎりなし かぎりある身ハ いまかおさらハ、臨終正念南无阿弥陀佛 南無妙法蓮華經」とある。図中に「壬辰小春椿山平弼寫」とある。五三桐紋に総髪の姿を考えれば、名のある医家と考えられるが、吉村貞斎という人物の詳細は不明である。

椿椿山 紅葉小禽図 天保年間

なんと近代的な作品であろうか。落款を隠せば近代の円山四条派の作品と見まごうばかりである。しかし、つぶさに観察すると随所に椿山らしさが見られる。
ひとつひとつのモティーフを分解すると様々な要素があることに気づく。楓の色彩については琳派を意識し、三羽の文鳥の筆法、また機知的な配置はまさしく長崎派の影響を看取できる。没骨法による楓木の葉の曖昧な輪郭、及びたらしこみ風の質感表現、そして木肌の筆法は、椿山の得意とするもので「 南田」の影響による。椿山の琳派への意識は、喜多川相説の粉本、また「七草図」などの実作品の存在から大いに窺われるが、花鳥画家としての多様性を示すものである。
近代を予感させる雰囲気は、荒削りだが、天保年間の椿山の旺盛な創作意欲を感じ取れる。全体のモティーフバランスは右に寄っており、落款の位置も単体の作品としては不自然なことから、あるいは対幅の可能性も考えられる。
「弼」朱文瓢印は天保年間の作品の指標であり、署名の書体もかっちりとしており、すべてにおいて椿山のこの時期の基準作とできる秀作である。署名及び「寫」の書体から、天保10年から11年にかかる作品と考えられる。

椿椿山 福田半香肖像画稿 嘉永4年(1851)

嘉永四年、半香(1804〜64)48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。横に記された「明四日時」とはメモ書であろうか。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。

「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)
しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。
画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。

椿椿山 老女像稿

渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、発見時には同一の袋に入っていた。伏目がちにおとなしい老婆の上半身が描かれる。付属として、顔部の陰影が強調された部分図が貼られている。

椿椿山 渡辺たか像稿 嘉永年間

右の図には、上に「第三 筋少ク」、左の図には「第四 耳大キク」「トカル 口ハヘノ字ナリ」「此スシ無」などと記してある。画左に「九月十一日 弼敬寫」とあり、「弼」の朱文円印を捺す。渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、渡辺家に伝来した可能性がある。昭和十年代に撮影された写真の題には「顯妣教了君肖像」と記される。

福田半香 高砂浦之図

兵庫の播磨灘に臨む高砂神社の相生の松の下に老夫婦を描き、天下泰平、長寿祝福を表したおめでたい画である。山水花鳥の得意な半香が人物画を描いた珍しい作品である。

福田半香 冬山水図 安政5年(1858)

落款により十二月二十一日に描かれたことがわかる。半香55歳の時の作品である。
小川に架けられた橋を渡り、草木で作った粗末な仮住居であろう、庵に向かって隠者が顔を少し上向き加減に、周りの景色を観賞しながら向かっている。上空には雲が立ち込め、山は高々とそびえている。山は点苔によって重みを出し、おおらかで太くゆったりとした線によって描かれた山や木々に、半香の自己のなかで確立した山水に対する心境が反映している。

福田半香 春江山水図 安政5年(1858)

遠景には山々が連なり、中景には柳の木々、家、船、橋が描かれ、そして川を隔てた近景には柳の下に桃色に花が咲く木々、二人の馬に乗って会話している人物に傘を持った小僧が馬の後を付いて歩く。薄墨と淡色でさわやかに描かれた春の日のある場面である。
落款は「戊午秋九月寫於岡崎客舎 半香福田佶」。

福田半香 怒涛之図 万延元年(1860)

巨大な岩塊にぶつかり砕け散る波、その中に一艘の帆船が今にも波にのまれそうになっている。船乗り達は水主(かこ)の指示のもと皆必死で船を押し出している。人物の顔は皆同じ様なので、この作品は、荒れ狂う海の中一艘の船が必死に浮いている、と半香が構図を練ったのであろう。
筆使いは太い線であるので、思いのまま描き進めたと思われる。そのせいか、この危険に満ちた航海が力強さと落ち着きを感じさせる。沖の波はゆったりとしていて手前の様子とはだいぶ違うようだ。きっとだんだんと空も晴れてゆき、船乗り達は皆無事に到着することができたであろう。
半香57歳のときの作品である。

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