平常展 渡辺崋山の新収蔵作品を中心に

開催日 平成21年3月27日(金)〜5月10日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで
会場 特別展示室

渡辺崋山は、十代後期から最晩年まで自然観察と写生を基に多くの作品を残しています。自然の景色を愛し、多くの中国から伝わった作品を学び、近代絵画の先駆となった崋山を取り上げます。

展示作品リスト

特別展示室
作品名 作者名 年代   備考
脱壁 渡辺崋山 文政8年(1825) 館蔵名品選第1集10
寓目縮写 渡辺崋山 文政9年(1826) 館蔵名品選第1集11
帰都日録 渡辺崋山 文政10年(1827)  
参海雑志(複) 渡辺崋山 大正9年(1920)復刻 原資料は天保4年(1833)
松に竹扇面図 渡辺崋山 江戸時代後期  
藤村父子宛尺牘 渡辺崋山 江戸時代後期  
三河畠村沖螺捕図 渡辺崋山 天保4年(1833) 山内幸子氏寄贈
神島渡海之図 渡辺崋山 天保4年(1833)頃 山内幸子氏寄贈
吉田橋真景図 渡辺崋山 天保4年(1833) 山内幸子氏寄贈
草稿東海道吉田宿 渡辺崋山 天保4年(1833) 山内幸子氏寄贈
江戸真景二図 渡辺崋山 江戸時代後期 山内幸子氏寄贈
太白堂孤月宛書簡 渡辺崋山 天保元年(1829) 山内幸子氏寄贈
鈴木春山宛書簡 渡辺崋山 天保4年(1833)  
鈴木弥太夫・佐藤半助宛書簡 渡辺崋山 天保5年(1834)  
鈴木与兵衛宛書簡 渡辺崋山 天保11年(1840)  
菊池淡雅宛書簡 渡辺崋山 天保年間  
太子像 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
達磨立像図 渡辺崋山 天保元年(1830) 山内幸子氏寄贈
孫叔敖陰徳図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
韓信漂母図 渡辺崋山 文政10年(1827) 高林富美子氏寄贈
摸医祖之図 渡辺崋山 文化12年(1815) 個人蔵
蓑笠画賛 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集19
風竹図 渡辺崋山 天保4年(1833) 個人蔵
神農図 渡辺崋山 天保11年(1840)  
蓮葉蛙声図 渡辺崋山 天保年間  
関羽図 渡辺崋山 天保8年(1837) 個人蔵
関羽之図 渡辺崋山 天保10年(1839) 個人蔵
崋山五十年忌 深川霊巌寺建立碑拓本   明治23年(1890)建立  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。

書簡等紹介

脱壁・寓目縮写 文政8・9年(1825・1826)

『脱壁』という名は文政6年頃から見られる。掛軸のように壁に作品を吊った場合、その絵だけをまるで切り取ったかのように記録したものというような意味であろう。表紙に「脱壁 乙酉縮写第壱」「十一」「計七巻」とあるものと、「寓目縮写丙戌仲秋第六」である。崋山の学画の様子が知られるものとして貴重な研究資料である。

帰都日録 文政10年(1827)

11月10日に田原を出発し、小田原宿までの旅の記録である。この年、藩主康明が28歳で病死したが、弟の友信を廃嫡し、姫路の酒井家から養子として稲若をむかえることとした。友信は田原城藤田丸に居を構えた。崋山も田原へ同行し、田原に22日間滞在し、11月10日田原藩士である中小姓格で友信の納戸役の上田喜作・中島源太夫と3人で田原から江戸へ向かった。小田原から江戸までの記録は別に記したのであろう。

三河畠村沖螺捕図・神島渡海之図・吉田橋真景図・草稿東海道吉田宿 天保4年(1833)頃

渡辺崋山は天保4年(1833)4月15日に田原を出発、赤羽根村を経て渥美半島の太平洋側を西進し、堀切村から伊良湖村へ出て、神島に渡った。この旅は『参海雑志』(原本は関東大震災で焼失)として残されていた。「伊良虞人」「神島船をあぐる図」など当時の漁民風俗を記録したものとしても貴重であるが、17日に神島へ1泊し、18日に大垣新田藩の畠陣屋を写生している。その後、帰路にあたるページには佐久島・吉良の華蔵寺・藤川宿などが写生とメモで残される。このルートで想像される途中には吉田宿(現在の豊橋市)もあり、この日記以外にも絵を描いて残したものと考えられる。

天保元年七月二十八日 渡辺崋山筆 太白堂孤月宛書簡(弟定意の訃を知らす)

弟定意の死が熊谷より報らされ、葬儀の準備にかかることを、親友孤月へ知らす書簡である。

華陰(註1)様 登
弟(註2)不礼之処、病死致候旨申来、依只今より
右治葬に取懸次第に存候。此段為御意申上候。   頓首 七月二十八日

註1)華陰 俳家太白堂孤月の雅号
   拝読、昨日上堂之後他へ罷出居候。
註2)弟 八、九歳の頃、寺奉公へ出された次弟熊次郎(後に定意)と考えられる。
   文化十一年四月十二歳の時、上州館林善道寺において定覚上人の弟子となり剃髪して僧籍に入る。
   文政十三年(十二月天保と改元)七月二十六日武州熊谷宿釜屋音次郎方にて客死した。享年二十八歳。

天保四年七月十八日 渡辺崋山筆 鈴木春山宛書簡(上書提出注意)

この書簡は、鈴木春山が格高制意見の上書草案を崋山に見てもらい、その指示の返書である。
先生御手翰被下候處、取紛御報及延引、先以御安和奉賀候然ハ此度御新法之御義二而御上書相成との御相談、至極御忠節之義可然存候。左れバ先日段々被仰越候筋合、皆可然事に内覽致候。されども大本の改革ハ出來かね可申ニ付、何如にも御取御行出來そうのヶ條のミ御撰出、御上書之方ニ存候。中ニ足下御内實之場御存無是故、一徧(編)の論ニも可相成筋も有之やと相心え候間、御深考可然候。御差出の時ハやはり佐藤半助方へ、麻上下なり又羽織袴なり、きつと際立候様御立振舞可被下候。其上に上書致候間ハ、御案内致旨御目付へ御斷、其上御支配十郎兵衛など可然候。これへも御斷可被成候。其節これ迄かやうの御例無之候間、私宅ニ謹ミ罷有候而、御沙汰有之次第御差図ニ可從段、御斷可被下候方ニ存候。又一例ハ御目付へ差出候も、支配ニ差出候とも、御側取次へ差出候とも、
上書ハ不苦義ニ候。されども今ヲ計リ候多ハ、御側向ハ泥田棒ニ可相成候。御無用可然候。御支配なれバ十郎兵衛宜敷候得共、被仰合候様ニテも宣なるものや、御考へ可被下候。
元越樽狙之義ニ而、御差図ハ御愼之方ニ御座候。足下病用などニてヒヨコヒヨコ出歩行候てハあしく候。

○元善久振りにて面會致、足下之様子も委敷承り申候。随分と御氣節御養可被成候。扨佐半老ととかく隔候様、これハ足下ニも不似合事存候。足下ハ佐半より長者也。交及之間、薫猶ヲ受ケ我慢有之候とも、洋化可仕筈之處、此肩争候ハ如何存候。何卒足下和光同塵のこころもちにて、御宥教可被下候。實拙老も元善などの事ニても大困仕候。拙老ヲ苦しめ候企とならでハ聞え不申候。何卒一日長シ拙者ニ御窒轤黶A佐老と己前之通御交可被下候。向ハさだめしよせつけ不申候哉、御諛可被下候。頓首
七月十八日  登  俊二郎様

天保五年十二月十八日 渡辺崋山筆鈴木弥太夫・佐藤半助宛書簡
 (新田開拓阻止の功により拝領物頂戴の礼状)

以手紙啓上仕候。甚寒之節御座候処、益御安吉奉賀候。然ハ此度新開御事済(註1)ニ付、格別之以御思召、過分之拝領物之仰付、難有仕合、御辞退も申上候得共、御思召ニ付被下候旨ニて御許容無之候間、頂戴仕候。此段御案内御礼旁如此御座候。恐惶謹言
 十二月十八日  渡辺登
 鈴木弥太夫様 佐藤 半助様

註1)新開御事済 『全楽堂記伝』に「公儀ヨリ三州渥美郡ノ入海ニ新田開発被仰付ヘキニ付、・・・・天保五年甲午ノ春見分トシテ出没アル官吏ノ威勢ヲ畏ル、ト詰問セラルトニ迫リテ意ヲ達セス。・・・・伯登以為ラク、盖シ官法新ニ墾田スルニハ、吏ヲ遣シテ検査シテ、或ハ地ノ利害或ハ民ノ苦楽ヲ訪問セシメラルトカヤ。我城地ノ形態、此海ニ依リテ要害ナルコトハ一見シテモ知ラルレトモ、斯マテ切キリニ開墾ヲ求メテ、官吏官製を挾ミテ吾民ヲシテ苦ヲ称セシメサラシムルハ、大盗ノ小婦ヲ掠メ、老父ノ児食ヲ奪フ如シ・・・・豪農奸商税官二賄フテ官命ヲ下シ、勢威ヲ以テ我ニ逼ルナリ。・・・・三月吾矦ノ願状ヲ草シヌ。其書ヲ閣老マタ御勘定奉行へ上ラレシ。・・・・九月ニ至リテ、閣老ヨリ我願書返シ玉リテ、三州新開ノ事、朝議止ミヌト達セラレケリ。」とあって、この書簡は崋山が功により藩主より拝領物を受けた記事で、天保五年と考えられる

二五日 渡辺崋山筆 鈴木与兵衛宛書簡(天井画の画稿を渡す)

この書簡の宛人は、吉田下り町の鈴木屋与兵衛(三岳)であること、まず間違いない。与兵衛は蟄居宅へよく出入りし、崋山に俳画を学び、金品を差し入れていた。特別味噌は崋山の気に入り、常時絶やさぬように与兵衛が持参したものである。また平五郎一家や水戸藩に仕えた健四郎とも懇意であった。健四郎よろこびとあるから天保十一年九月仕官の直後の書簡であろう。天井画は吉田の某神社の天井画の下絵を依頼したのであろう。

御頼之天井(註1)御手伝出来、御使江相渡候。

たとへ私と疑ワれ候ても、くれくれも御申ちらし(註2)

可被下候。随分あしくきなく認候ツモリなれと、浮名(註3)ヲ撮らぬ様ニ致度候。

一、ミソ此度のハ一風味有之、妙々難有。のりの事御申こし恐入候。
  あり合は無之、ワさワさ取よせ候処、極下品恐入候。仰如くニ付、少々上候。
  平五郎(註4)とのへも御上ヶ可下候。

一、水竹君(註5)ハよろこひ之よし、大悦至極仕候。

一、美濃久様(註6)かけもの差上候。

一、何そかけもの、うつしの御取出候ハ、拝見奉願、唯それのミ楽に御座候。

一、去冬之拝借うつしもの、

一、近日御返却可申候。廿五日

註1)天井 天井画の下絵をいう。
註2)御申ちらし 云いまぎらす。言葉をにごす。
註3)浮名 悪い評判。
註4)平五郎 吉田魚町のさかな屋金子健四郎の兄。
註5)水竹君 吉田の文人か。
註6)美濃久様 不詳、吉田町の町人か。

一月十六日 渡辺崋山筆 菊池淡雅宛書簡

高書拝讀新禧奉賀候舊臘御吉事何事も同書故被為済奉賀候相願真會記図ワさワさ御持せ被下歓喜ニ不堪奉謝候汪氏墨荘之義御尤千万御返却之身ニ奉存候當月中ハ御多冗之よし何卒来月ハ杏雪先生と御臨訪奉願度候ト期可申上候以御薦林佶雑漢装書来初春より掛祥書相楽候萬を拝聴候
一御小襖絹弐枚草花奈と認可申謹領仕候七種より風邪熱氣絶不行引込罷在候少々延引可仕候者思召ニて御人奉願候御急之處ハ承知仕候
月君阪之書状御面倒謹領其病床中宜布字猶餘永日 頓首
正月十六日
淡雅(註1)先生    登

註1)淡雅は菊池淡雅。崋山の友人、書家。本姓は大橋氏。親戚菊池氏を嗣ぎ、佐野屋長四郎と称し、絵絹商を営む。崋山からの手紙は天保十年・十一年に数点あるが、この資料は未発表資料である。

太子像

柄香炉を持った聖徳太子孝養像と称されるもの。16歳で天皇が病気になった際、毎日看病、食事を供され、香炉をささげて平癒を祈られた故事による。隷書体で「登」とのみ、落款される。旧田原藩士の家に伝わった作品である。

孫叔敖陰徳図 天保9年(1838)

戦国時代、楚の国の孫叔敖が幼い時、遊びに出て頭が2つある蛇を見た。叔敖は蛇を殺し、地中に埋め、他の人に見られないようにした。帰宅後「双頭の蛇を見た者は、近く死ぬと聞いている」と言って悲嘆にくれた。母は、叔敖が他の人に見せてはいけないと思って蛇を埋めたのを知り、「心配することはない、人に知られぬ善行をした者は、天の神様が幸いをお与え下さる」と伝えた。叔敖は後年、楚の上卿(しょうけい)(上席家老)となり天寿を全うした。この故事を描いたものである。

韓信漂母図 文政10年(1827)

韓信(?〜前196)は劉邦配下の武将。「韓信の股くぐり」の故事で知られる。若い頃、貧乏で、品行の悪かった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んでいない」と語ったという。漂母とは、古綿を洗う老婆のことである。

摸医祖之図 文化12年(1815)

神農は紀元前2740年頃の中国の伝説に登場する皇帝で、百草を嘗めて効能を確かめ、人々に医療と農耕の術を教えたと伝えられる。中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。この作品の右端に「文化亥探幽図摸」と書かれ、「胡粉入」などと色の指定があり、崋山23歳の粉本であることがわかる。印は後入れであろう。

蓑笠画賛 天保年間

天保4年(1833)に伊勢湾の神島に渡った時の印象を俳画風に作ったもの。激しい波風で渡航は大変であった。画賛に「伊勢の國神島といふところにやどりて 世の中や人の上より波のうへ ひとをたのむ身をもたのむやのみしらみ」とある。

蓮葉蛙声図 天保年間

崋山45歳頃の作であろう。「登」落款の下に「田原藩士渡邉登蔵書記」印が捺される。この印を作品に使用する例は他に見ない。席画であろう。

関羽之図 天保10年(1839)

落款に「天保己亥端午崋山外史」とあり、5月5日の制作であることがわかる。この月の14日に蛮社の獄で北町奉行所揚屋入となる。素材はチリメンである。

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