渡辺崋山と斎藤香玉

展示期間 2007年8月31日(金)〜9月30日(日)

斎藤香玉は、上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進の子として生まれ、人物・山水画を得意としていた。今回の展示では、初公開の粉本も展示します。粉本は、先人の描いた絵を模写したものや縮図にし、絵手本としたもので、掛軸などにされずに、折りたたまれたりして保管されています。

展示作品リスト
田原市博物館(特別展示室)
指定 作 品 名 作者名 年 代 備 考
市文 四季山水画冊
(しきさんすいがさつ)
渡辺崋山
(わたなべかざん)
天保8年
(1837)
 
  粉本(ふんぽん)      
  (人物画(じんぶつが))   文政年間 10
  文殊菩薩(もんじゅぼさつ) 斎藤香玉 江戸時代後期 2
  水鳥(みずとり) 斎藤香玉 天保9年
(1838)
13
  馬上人物(ばじょうじんぶつ) 斎藤香玉 江戸時代後期 4
  拾得(じっとく) 斎藤香玉 江戸時代後期 9
  寒山拾得図(かんざんじっとくず)
(宋紫石写(そうしせきうつし))
斎藤香玉 江戸時代後期 10
  月夜山水(げつやさんすい) 斎藤香玉 江戸時代後期 11
  双鴨図(そうおうず) 斎藤香玉 江戸時代後期 12
  麒麟図(きりんず) 斎藤香玉 江戸時代後期 13
  きつつき 斎藤香玉   3
  月梅(げつばい)
(王文淵写(おうぶんえんうつし))
斎藤香玉 天保10年
(1839)
12
  鍾馗図(しょうきず)
(雪舟写(せっしゅううつし))
斎藤香玉 天保9年
(1838)
4
  崋山筆亀台金母図写
(かざんひつきだいきんぼずうつし)
斎藤香玉 江戸時代後期  
  王石谷山水写
(おうせっこくさんすいうつし)
斎藤香玉 天保7年
(1836)
1
  崋山筆関羽図写
(かざんひつかんうずうつし)
斎藤香玉 江戸時代後期  
  粉本(ふんぽん)      
  鍾馗図(しょうきず) 斎藤香玉 天保9年
(1838)
5
  鍾馗図(しょうきず) 斎藤香玉   6
  鍾馗図(しょうきず) 斎藤香玉 天保9年
(1838)
7
  鍾馗図(しょうきず) 斎藤香玉 天保9年
(1838)
8
  鍾馗図(しょうきず) 斎藤香玉 天保9年
(1838)
9
  富士越龍(ふじこしのりゅう) 斎藤香玉   11
  山水(さんすい) 斎藤香玉 天保6年
(1835)
14
  山水(さんすい)
(小田海僊写(おだかいせんうつし))
斎藤香玉 天保6年
(1835)
15
  金沙金王(きんさきんのう) 斎藤香玉 江戸時代後期 1
  金沙金王(きんさきんのう) 斎藤香玉 江戸時代後期 2
  六祖大師(りくそだいし) 斎藤香玉 江戸時代後期 3
  鍾馗図(しょうきず) 斎藤香玉 江戸時代後期 5
  蝦蟇仙人図(がませんにんず)
(馬麟写(ばりんうつし))
斎藤香玉 江戸時代後期 6
  寿老人図(じゅろうじんず) 斎藤香玉 江戸時代後期 7
  唐人物図(とうじんぶつず) 斎藤香玉 江戸時代後期 8
  雪景山水図
(せっけいさんすいず)
斎藤香玉 天保9年
(1838)
 
  秋景山水之図
(しゅうけいさんすいのず)
斎藤香玉 江戸時代後期  
  緑陰山房図
(りょくいんさんぼうず)
斎藤香玉 江戸時代後期  
  赤壁図(せきへきず) 斎藤香玉 江戸時代後期 14
  西園雅集図(せいえんがしゅうず)
(仇英写(きゅうえいうつし))
斎藤香玉 江戸時代後期 15
  家屋(かおく)
(周文写(しゅうぶんうつし))
斎藤香玉 江戸時代後期 16
  夏景山水(かけいさんすい) 斎藤香玉 江戸時代後期 17
  山水(さんすい) 斎藤香玉 江戸時代後期 18
  山水図(さんすいず)
(王写(おうきうつし))
斎藤香玉 江戸時代後期 19
  白梅金(はくばいきんけい)
(徐子仁写(じょしにんうつし))
斎藤香玉 江戸時代後期 20
  関羽張飛図(かんうちょうひず) 斎藤香玉 江戸時代後期 21

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。


作者の略歴
渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

斎藤香玉[さいとう こうぎょく] 文化11年(1814)〜明治3年(1870)
上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の3番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は10歳で父と知己であった崋山につき、崋山十哲の一人に数えられる。蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走したことが椿椿山の『麹町一件日録』に記される。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。明治3年3月29日、57歳で病没。墓所は東京都台東区入谷の威応寺にある。

作品紹介
斎藤香玉 文殊菩薩
文珠菩薩とも書く。維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたとされ、知恵の菩薩とされる。また、「三人寄れば文殊の智恵」などのことわざでよく知られる。獅子の背に坐している。

斎藤香玉 鍾馗
中国や日本の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けなどに効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効果があるとされ、掛軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。鍾馗の図像は長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿である。

斎藤香玉 六祖大師
六祖大師とは、慧能(えのう、638〜713)のことで、中国禅宗の第六祖。諡(おくりな)は大鑑禅師。早くに父を失い、貧しかったため、市にでて、薪を売って母を養った。20歳すぎ、人が「金剛経」を唱えるのを聞き、仏道を目指した。五祖弘忍(ぐにん)に師事したが、学識がなかったため、米つきの作業を8カ月やっていた。そのころ、弘忍はみずからの禅をゆずる人をきめるために、弟子たちに偈(げ:悟りをしめす詩)を作らせた。 彼の禅は、神秀の北宗禅に対し、南宗禅とよばれ、臨済宗や曹洞宗など五家七宗とよばれる禅はみなここからでている。慧能の波乱万丈の生涯は「六祖壇経」にしるされている。

斎藤香玉 蝦蟇仙人図
蝦蟇仙人は劉海蟾(りゅうかいせん)といい、中国渤海(ぼっかい)の人。金王朝に仕えて大臣となったが、のち野に下り西安終南山にこもって仙術を学んだ。蝦蟇を使って妖術を行ったという。

斎藤香玉 寿老人図
寿老人(じゅろうじん)は道教の神で、南極老人星(カノープス)の化身でもある。長寿の神とされ、日本では七福神の一人として知られている。寿老人の図では瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従え、手には、これも長寿のシンボルである魔法の桃を持っている場合も多い。

斎藤香玉 赤壁図
赤壁とは、北宋の文人蘇軾(蘇東坡)が「赤壁の賦」を書いたことで有名な場所である。その場所は湖北省黄州市西北の長江北岸の赤鼻山を指し、「東坡赤壁(別名、文赤壁)」と呼ばれる。この地は、晩唐の詩人杜牧が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の作品によって、実際の古戦場以上に有名になってしまった。なお東坡赤壁は長江の流れが変遷したため、現在は長江に面していない。

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田原市博物館
TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp

田原市教育委員会 http://www.city.tahara.aichi.jp/section/kyoiku/ こちらもご覧ください。