渡辺崋山の家族〜渡辺如山没後170年
展示期間 平成18年12月14日(木)〜平成19年2月4日(日)

展示作品リスト
特別展示室
指定 作 品 名 作者名 年 代 備 考
重文 渡辺家年譜
(わたなべけねんぷ)
  江戸時代後期  
市文 渡辺如山印顆
(わたなべじょざんいんか)
     
  展観録
(てんかんろく)
渡辺如山
(わたなべじょざん)
天保3年
(1832)
 
  客坐縮臨
(きゃくざしゅくりん)
渡辺如山 天保3年
(1832)
 
  山内香雪宛書簡
(やまうちこうせつあてしょかん)
渡辺崋山 天保8年
(1837)
弟五郎霊供への礼状
個人蔵
  花禽十二帖
(かきんじゅうにじょう)
渡辺小華
(わたなべしょうか)
明治時代前期  
  短冊寄郭公懐奮
(たんざくきかくこうかいふん)
渡辺須磨
(わたなべすま)
明治時代前期  
  渡辺巴洲先生半軒銘
(わたなべはしゅうせんせいはんけんめい)
渡辺巴洲
(わたなべはしゅう)
江戸時代後期  
重文 渡辺巴洲像画稿
(わたなべはしゅうぞうがこう)
渡辺崋山 文政7年
(1824)
 
重文 渡辺巴洲像画稿五図
(わたなべはしゅうぞうがこうごず)
渡辺崋山 文政7年
(1824)
 
  渡辺立墓石稿本
(わたなべたつぼせきこうほん)
  安政3年
(1856)
個人蔵
  母児相摩之図
(ぼじそうまのず)
渡辺崋山 文政12年
(1829)
 
重文 日月大黒天図
(じつげつだいこくてんず)
渡辺崋山 天保11年
(1840)
 
市文 御母堂栄之像画稿
(ごぼどうえいのぞうがこう)
渡辺崋山 天保年間  
市文 母堂栄座像画稿
(ぼどうえいざぞうがこう)
渡辺崋山 天保年間  
市文 母堂栄画像画稿
(ぼどうえいがぞうがこう)
渡辺崋山 天保年間  
市文 崋山先生令室たか坐像画稿
(かざんせんせいれいしつたかざぞうがこう)
椿椿山
(つばきちんざん)
嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか像稿
(かざんせんせいれいしつたかぞうこう)
椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか之画稿像
(かざんせんせいれいしつたかのぞうがこう)
椿椿山 嘉永年間  
重文 渡辺崋山像(複)
(わたなべかざんぞう)
椿椿山 嘉永6年
(1853)
 
  観音図
(かんのんず)
渡辺小華 明治時代前期 個人蔵
  消夏三友図
(しょうかさんゆうず)
渡辺如山 天保年間  
  芍薬・白梅図
(しゃくやく・はくばいず)
渡辺如山 天保年間 個人蔵
  柳荳百虫図
(りゅうとうひゃくちゅうず)
渡辺如山 天保年間  
  柱かけ
(はしら)
渡辺如山 天保年間  
  秋苑孤鶏図
(しゅうえんこけいず)
渡辺如山 天保6年
(1835)
 
  牡丹之図
(ぼたんのず)
渡辺如山 天保年間  

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。
※また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

作品紹介

●渡辺如山 展観録 天保3年(1832)
 表紙に「第五 計□冊 展観録 壬辰仲春 廿有一日 如山記」とあり、裏表紙には「八十九枚」とある。ページをめくると、植物、鳥、人物、鏡など身近な物をスケッチしている。そして、その間に時々書、または漢詩の勉強であろうか、書き写しの文字が含まれている。若い如山が様々なことに関心を寄せていたことがわかる。

●渡辺如山 客坐縮臨 天保3年(1832)
 表紙に「第一 客坐縮臨 華亭記 計三」とあり、「山中青p蔵」や「立原氏蔵」との書付や沈南蘋・ヲ南田・張秋穀・江稼圃などの中国作家の様々な絵画や書、秀吉像や柿本人麻呂の摸写もあり、123丁からなり、「華亭」は如山の号である。師である椿椿山や兄である崋山の指導で、十代の自分の力としていたのであろう。

●渡辺崋山 田原市指定文化財 御母堂栄之像画稿(ごぼどうえいのぞうがこう) 天保年間
 崋山の母は、旗本で摂津国(現大阪府)高槻藩主の永井大和守の家臣河村彦左衛門の娘にあたる。二十二歳で崋山を生んだ。
 崋山が四十歳の時に書いた『退役願書稿』(重要文化財・田原市博物館蔵)によれば、「唯母之手一つにて、老祖・病父・私共、其日を送候事故…」「私母、近来迄夜中寐(寝)候に、蒲団と申もの、夜着と申もの、引かけ候を見及不申、やぶれ畳之上にごろ寐(寝)仕、冬は炬燵にふせり申候。」と書き、非常に苦労していたことがわかる。渡辺家には、この作品の稿と考えられる作品(田原市博物館蔵・田原市指定文化財)があった。画面中央左に「全楽堂文庫」印が捺されている。元は渡辺家にあったものであろう。崋山が田原幽居中に描いたものと考えれば、七十歳頃の姿である。

作者の略歴

●渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

●渡辺如山 [わたなべ じょざん] 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
 如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜54)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

崋山略系図

崋山略系図

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